前回で書いたように、どうも最近、オブジェクトをあまり動的に捉えず、静的なものとして考えている人が多いように思えます。と同時に、データよりもプログラムを中心に考える傾向が強いのです。
例えば、固定位置に値が入っているような文字列から安全に値を取り出せるようなクラスを作ることになると、
class RecordImpl { protected: string data; public: RecordImpl (string srcData) { data = srcData; } int getData1() { return (int)srcData.substring(0,4); } int getData2() { return (int)srcData.substring(4,4); } }
というようなクラスを作ってしまうわけです。確かにこれはこれでとても分かりやすいですし、ある意味メンテナンスも容易なのですが、要素の数が増えるにしたがってコード量が不毛に増えてきます。
僕の場合、以下のように作ります。
class IntEx { int val; int Offset, Length; IntEx(string Data, int oOffset, int oLength) { val = (Integer)Data.substring(Offset, Length); Offset = oOffset; Length = oLength; } int getValue() // オブジェクトが持つ値を返す { return val; } } class RecordImpl { protected: string data; public: IntEx IntData1, IntData2; // 要素に対応するオブジェクト RecordImpl(string srcData) { data = srcData; // オブジェクトを動的に作成してパラメータをセット IntData1 = new IntEx(srcData, 0, 4); IntData2 = new IntEx(srcData, 4, 4); } }
下のコードは、項目ごとにオブジェクトを用意して、その中で値を取得するようになっています。こうすることでどういうメリットが現れるかといいますと、
二番目がちょっと分かりにくいかと思いますので追加解説しますと、
class IntEx { int val; string Name; int Offset, Length; IntEx(string Data, string oName, int oOffset, int oLength) { val = (Integer)Data.substring(Offset, Length); Name = oName; Offset = oOffset; Length = oLength; } int getValue() { return val; } } class RecordImpl { protected: string data; public: ListArray Columns; RecordImpl(string srcData) { data = srcData; // ここでカラム一覧の定義をする。カラムの情報が値で揃っているので、 // この情報をテキストなどから呼び出すことで、 // カラム一覧を動的に作ることができる Columns.Add(new IntEx(srcData, "IntData1", 0, 4)); Columns.Add(new IntEx(srcData, "IntData2", 4, 4)); } }
というようなコーディングができるようになってきます。
最後のカラム一覧をListArrayに列挙できるということは非常に大きな意味を持ちます。一覧の形で持つことができれば、カラム名は文字列でアクセスできるようになりますし、全てのカラムを初期化するコードや、全てのカラムのカラム名と値のペアを文字列に列挙するようなメソッドをデバッグのために作ることもできるようになるからです。例ではIntEx型しか作っていませんが、基底クラスを用意することで、StringEx型やDateEx型を一緒に列挙することも可能です。
ただ、最近は本当のところこういうオブジェクトを抽象化することはあまり好まれないようです。それは先日も書きましたが、データが抽象的になることで新人のメンテナンスが困難になることや、行数が大幅に減ってしまう(!)といったデメリットもさることながら、サンプルで言うと「Data1だけ取得時に変なチェックをしなければならなくなった」、というような時に、最初のシンプルな書き方の方が「どこを直していいか明確で、しかも他の部分に影響を与えにくい」という点が好まれているようです。
この最後の点は、近年のオブジェクト指向設計事情にかなり根強く信じられていることで、抽象化が進んだソースは避けるべき、と考える人たちの大きな根拠となっているようです。この辺りのことについても僕はちょっと異論を持っているので、そのことについても追って書いていきたいと思います。
僕はずっとこのミカンのむき方が最適解であることを疑いもせず過ごしました。周りにいる人もほぼ例外なく同じようにむいていました。
ところが、高校生の時、友人の中に変なむき方をしている人が現れました。ヘタの方から指を入れてむくのです。彼いわくこうした方が白いスジがきれいに取れるそうなのです。実際にやってみたら、確かにヘタ側からむくと、皮をはずすときに白いスジが一緒に皮にくっついて取れてくれます。
「白いスジが取れるほうが正しいむき方」と誰かが決めたわけではありませんが、皮をむいた後で白いスジを丁寧に取る人は、ヘタの方からむいたほうがよさそうです。
と、ここまで書いたところでGoogle検索してみたのですが、結構これ以外にもいろいろなむき方があるのですね。僕が生まれ育ったのはミカン王国のひとつである「香川県」ですが、ミカンのむき方にこだわりがある人があまり周りにいなかったのは今思うと意外です。
で、何が言いたいのかといいますと、子供の頃から教えてもらって当たり前だと思っているやり方も、冷静になって考えてみると、逆にやったほうが全く合理的な場合があるなぁ、ということなのです。
子供の服にボタンをかけている時にも思ったのですが、洋服のボタンって下からかけた方が掛け違いが少なくなるのですね。上からかけていこうとすると、一番見えにくいところを手探りでボタン探しをしてはめ、その次その次とはめていくことになるので、間違いに気付きにくいからだと思います。下からはめていくと、この「最初のかけちがい」が起こりにくいからなんでしょうね。
でも、下からボタンをかけていく人も結構少ないように思えます。僕はもう上からかけるのが癖になってしまっているので、急いでいればいるほど、上からかけようとして掛け違えてしまいます。小さい頃からの習慣ってなかなか直らないもんですね。
一言で言うと、娘が「再婚する母親」を祝福する唄なのですが、なぜ母親が離婚したのかというような詳細については曲中では触れられていません。実の母親の離婚と再婚というなかなかセンセーショナルなテーマを扱っている割には、その辺りちょっとそっけない感じがしなくもありません。
同じように「離婚児童文学」とでもいいましょうか、そういうジャンルの作品を探してみると、なんと言っても「二人のロッテ」(ケストナー著)が挙げられるでしょう。こちらは両親が離婚に至った理由まで詳細に作品中で描写されています。その辺りがちょっと暗い雰囲気になるのですが、さすが離婚児童文学の古典だけあってオチはストレートにハッピーエンドとなっています。
「ママの結婚」もまぁハッピーエンドで、一応前の父親をフォローしたりもしているのですが、僕の身分からすると何だか複雑な気持ちです。この唄を聴かれて女房に泣かれるとダンナの立場ないですね。
とはいえ、実は僕もこの曲を最初に「みんなの唄」で聴いたときは不覚にも涙を浮かべてしまったのです。曲といい詞と言い映像といい、歴代「みんなの唄」の中でも指折りの名作と言えると思います。結局二日目に予約までしてビデオに録って女房に見せたのですが、二度目に見てもまた女房は泣いていました。
で、家で何をしていたかというと、漬け物を漬けていたのです。漬け物とは言ってもぬかづけのような本格的なものではなく、白菜やにんじん、ナスを少量の塩で漬け込む「浅漬け」というやつです。特に道具がいるわけでもなく、昼に漬け込めば夕方にはもう食べられるようになっているので、せっかちな人間にも向いています。
作り方は「かんたんお漬物」を参考にしました。漬け物に関してはいろいろなサイトがあるのですが、よく読んでいると材料の中に「浅漬けの素」とか「魔法の出し汁」とかが入っていたりして、結局何か買ってこないといけなくなっていたりするのですが、このサイトは浅漬けの素そのものの作り方まで書いてあって、基本的に汎用調味料と漬け込む材料だけで作れるため、とても好感が持てます。
実際に作ってみると、そりゃもうびっくりするぐらいおいしいものが簡単にできてしまいます。今までこれだけのためにパック詰の浅漬けを買っていたのかと思うとちょっとばかばかしくなります。ついてに浅漬けの素の類も売っていること自体疑問を持ってしまいますね。塩、砂糖、昆布など数種の調味料を混ぜただけで十分おいしいのができるのですから。僕の場合、あまり揉まないようにして、漬け込みの時間を長く(半日ぐらい)とるようにしています。そのほうが味がなじむようです。
漬け物に限らず、「日本人はなんでこれぐらいのことを自分でやらなくなってしまったんだろうなぁ」と思うことが時々あります。
以前長いことやっていたプロジェクトが突然終わってしまい、ヒマだったのでタンスに入っている靴下の穴を針と糸で塞いだりしたのですが、一足5分もあればできるんですよ。それで半年以上延命できるのですから、確かに靴下が安くなったとは言え、ちょっと針箱を出して縫うぐらいのことをみんなやってもいいんじゃないかと思うわけです。
漬け物にしろ針仕事にしろ、やってみると結構楽しかったりするもんですよ。
このフレットがない後者のタイプを「フレットレスベース」といいます。このフレットレスベースにも実は二つの潮流がありまして、フレットにあたる場所に半音ごとに線が引いてあるものと、全く指板に音程の手がかりになるようなものがないものとがあります。
フレットレスベースを語るとき、このフレットラインの有無が結構議論の種になったりします。
フレットライン有り派の代表は、なんと言ってもジャコ・パストリアス御大でしょう。フレットレスベースのみならず、エレクトリックベースそのものの普及にも大きな功績を残した、まさに巨匠と言える人です。
ベーシスト水野正敏氏が著した「ジャコ・パストリアス奏法」という本の前書きには興味深いことが書かれています。『ジャコが本当の意味で音楽界に革命を起こしたのは・・・それは”フレット・ラインを書いた”ことだ!』と。
僕もずっとこの意見には深く共鳴していて、現在持っているフレットレスにも当然のようにフレットラインが書かれています。
ところが先日、スティーヴ・ベイリーというベーシストの教則ビデオを見てから、ちょっと考えが変わってきました。このスティーヴ・ベイリーという人、六弦のフレットレスでしかもフレットラインがないものをバリバリ弾いてしまう怪物なのですが、この人の教本は、徹頭徹尾「音程を見極めること」なのです。音程は目で見るのではなく、耳で「合った」と思うまで指を動かして合わせろ、合ったと思うまで次の音を出すな、というわけです。
確かにこれは道理で、目で見て指がいくらフレットラインに乗っていても、音程が正しくなければしょうがないわけです。それまでフレットがあるベースしか弾いたことがない人が、フレットレスに持ち替えたとき、フレットラインがあるとそれを目で追うだけになってしまい、実際に音程があっているかどうかは二の次になってしまいがちです。
こう考えると、少なくともフレットレス初心者はあえてフレットラインの無い楽器を選んだほうがいい、と言えると思います。まず耳で音程を合わせる癖が付いてからならば、フレットラインの入った楽器を多少指板を見ながら弾いたところで問題は起きないでしょうから。
もともと国語文法というのは、世の中で話されている言葉を分析して、その中から法則性を見つけてそれに「文法」という名前を付けてきたもののはずです。最初に「文法」があって、それに沿って日本人が日本語をしゃべり始めたと思っている人は恐らくいないと思います。
だのに、なぜ「ら抜き」言葉が非難されるのでしょうか?本来、巷で使われている言葉が主で、それから生まれたのが「文法」だったはずなのに、いつの間に「文法」が巷の言葉を「間違っている」と批判できるような身分になったというのでしょうか?
自然界から人間が読み取った法則に自然が従う必要など元々全くないのです。自然はエネルギー保存の法則を無視してもかまいませんし、我々は日本語を変えていくことができるのです。日本語が変わっていけば、文法書を書き直せば済むことなのです。
ここのところCPUのクロックも3GHzを越えたところで落ち着いてしまい、性能という点では目を見張るような新機種が出なくなりました。それ以前に、普通に使う分には1GHz〜2HGzのマシンでも十分に実用に足りるということがユーザーの間にも浸透してきて、メーカーとしては新しいマシンを買ってもらうための「誘引力」になる要素があまりなくなっていました。
そこで出されてきたカードがこの「静粛性」のようです。以前から一部自作マニアと言われる人たちの間では、性能とともに静粛性はこだわりの要素のひとつでした。そのために大径ファンを付けたり、巨大なヒートシンクを付けてファンそのものを廃したり、果ては水冷化したり(これは高速化の手段でもありますが)と、様様な努力をしていたようです。高速化というのは必然的に大きな熱を生み、それを廃熱するために大きな空気の流れを作ろうとすると、必然的にファンの数が多くなりうるさいマシンになってしまう、そういうところから静粛性が求められていたのでしょう。
しかし、そんな人たち以外の人にも、この静粛性というのをコンピュータに求めていて、これまで速度競争の中で置き去りにされてきたことに憤りを感じていた人はかなりいたのだと思います。そんな人たちが静音化パーツを求めるようになり、やがて「静音」は秋葉原の合言葉のようになっていきます。
今ではあまり意識せずにパーツを選んでも、以前よりはずっと静かなマシンができあがるようになっているようです。僕が仕事で作ったマシンも、職場で起動すると「本当に動いているの?」と心配になってしまうほどでした。HDのアクセスランプがなければ動いているかどうかちょっと分からないというのは、ある意味困るのですが。
その後、家の自作PCパーツも一通り入れ替えてしまいました。そのおかげで、仕事部屋が随分静かになって、音楽を聴きながら仕事をするにも以前ほどファンの音が耳障りではなくなりました。
冷静に考えてみれば、これまで「マルチメディアマシン」とやらを標榜していた多くのパソコンが、動作中に音楽どころではないほどの騒音を出していたこと自体、「なんだかなぁ」と感じます。静音化がある程度目標を達成できた今、やっとコンピュータはメディアとなりえる可能性を得たと言えるのではないでしょうか。
ペッパーランチでステーキを頼むと、ジュージューに焼かれた鉄板の上に生肉が置かれた状態で持ってきてくれます。これを余熱で焼くのですが、そのまま鉄板の上に置いておくと焼きすぎてしまうので、マニュアルでは「焼けたら野菜の上に置いて」と書かれています。
ただ、実際にやってみると、野菜の上に置いていても放射熱で焼きが進んでしまうのです。放っておくとウェルダムになってしまうので、レアの好きな僕は最初猛烈な勢いで食うことで焼き過ぎを防いでいました。しかし、これだと今ひとつ食った気がしないという問題があります。
で、編み出したのが「ご飯の上に退避する」というものです。焼けたら一度ご飯の上に乗せて、次に食べるぶんだけ鉄板に乗せて少し暖めて食べるという。これをするようになって少し落ち着いて食べられるようになりました。
僕が小学校の頃、僕が居た丸亀という町には「ぐりーんはうす」というファミリーレストランがありました(今でもあるようです)。時々連れて行ってもらったりしたのですが、そこでのサーロインステーキは1200円で、唯一1000円を越える「超豪華な夢のメニュー」でありました。
思えばステーキを食べたいときに食べられるようになった頃から、お腹が出始めたように思います。夢のメニューは夢のメニューのままにしておけばよかったのかもしれません。
そこまではいいのですが、驚くべきことに、このできたばかりのピカピカのメールアドレスに、月曜日にスパムメールが届いていたのです。ご丁寧にHTMLのメールで、海外のカジノサイトに飛ばしてくれるメールでした。
彼らは一体どのようにしてこの新しいメールアドレスの存在を知ったのでしょうか?
考えられることは以下のような可能性です。
こういう盗聴系のソフトからのアドレスが流出するのを防ぐ一番効果的な方法は、Windowsがもっているアドレス帳やアカウントの機能を使わず、自前でアカウントやアドレス帳の機能を持っているメーラを使うことでしょう。今回はOutlookを使っていたので、流出しやすい環境だったのかもしれません。
しかし本当にインターネットっていうのは油断ならないものです。皆様もお気をつけください。
ウチの女房のところに届く手書きの郵便物の宛名を見ていると、大半の日本人が「裕子の裕」が「ネ」だろうが「コロモヘン」だろうがどうでもいいと思っていることが分かります。かなり高い確率(恐らく75%以上)で間違えて「ネ」と書いているのです。
学校で習ったときはちゃんと「コロモヘン」で書くように皆覚えさせられたはずなのですが、一旦社会に出てしまうと「裕」の左側を「ネ」で書いてしまっても誰も気にもとめていません。「裕子」さんや「裕次郎」さん以外は。
「裕子さんや裕次郎さんは、自分の名前を正しく書けるかどうかでその人の教養を判断しているんだ。間違いない。」
「裕子」という名前の人は、自分の名前を人に手書きされると必ず「コロモヘン」で正しく書かれているかどうかチェックしているのです。で、間違えていると心の中で「ププッ」と小さく笑っているのです。ああ恐ろしい。
実際、僕自身も女房の名前を書く時、緊張のあまりなんとなくとってつけたように「ネ」に点をひとつ加えているのです。皆さんも「裕子」さんに手紙を書くときは一度心に急ブレーキをかけて「コロモヘン」を書いているかどうか安全確認を怠らないようにしましょう。「裕福な人は衣を沢山持っているからコロモヘン」と心の中で唱えながら書くといいと思います。
これからはくれぐれも間違えて裕子さんに「プププ」と心の中で笑われないよう気をつけて!
賭け事をしている人を見ていると、人は本質的に平等など求めていないんじゃないかと思います。日本では所得税が累進課税されていて、富はある程度再分配されるようになっていますが、そうして再分配され平均化された所得を、わざわざ賭け事をしてまで再び偏らせているわけですから。
例えば5人の人に1万円ずつの所得があったとしましょう。これを全員が競馬につぎ込むと、
1万 1万 1万 1万 1万
だった状態が、胴元に3割取られて
3万5千 0 0 0 0 胴元1万5千
という状態になるわけです。これで富の偏りが生じたわけですが、この偏りを発生させるために、5人の人が30パーセントのロスを容認しているのです。ということは、この富の偏在を起こすために30パーセント分の価値が消費されてしまってもいいと参加者は思っているわけです。言い換えれば、富が平均化されている状態は、30パーセント分ぐらいロスが生じても偏った状態に遷移してしまうほど不安定な状態だと皆が感じているということなのです。
「人間は本質的に平等など求めていない」のではないかと僕が感じるのはその辺りです。不平等を起こすためにわざわざお金を使っているわけですから。ただしその偏りをどこに偏らせるかを、運(ではないと言う人もいるかもしれませんが)に委ねているだけで、本質的に富の偏りを求めていることには違いありません。
賭け事をする人の考えを人間全体に適応することは無理があるようにも思えますが、皆が求めているものが「平等」ではなく、「自分が勝ち組みの側に入っている不平等」であることは賭け事以外の人間の行動を見ていてもいろいろと感じることができます。世界的に共産主義が衰退して、競争をベースとした資本主義的な経済が隆盛していることもそのひとつでしょう。
大学時代、マルクス読みながら府中競馬場に通っている先輩がいたけど今どうしてるかなぁ。「能力に応じて働き、必要に応じて分配」という思想が人類に運用できるわけがないことぐらい、府中競馬場に毎週通っていれば気付きそうなもんですが。
価格はピンからキリまであります。いろいろ食べてみて思うに、基本的には高いほうがおいしいのですが、安いからといっておいしくないとは限らないという、まぁ比較的当たり前の答えになります。天然のものですから、同じ会社の同じパッケージに入っていても当たり外れがあるようです。
僕は「ツマミは1日100円程度」を基準に考えていますので、200円/枚前後の価格のものまでは許容しています。これを半分にして二日で食べるのです。スルメは5枚入りで1000円程度の価格がついていることが多いので、スナック菓子などと比べると高い印象がありますが、実際にはそう高いものではないことが100円/一日というコストを考えてもわかります。
保存がきいて場所をとらない、というのもメリットとして挙げられるでしょう。 しかも、スナック菓子よりはずっと体にいい、というか悪い要素がずっと少ないように思えます。硬いものを噛むことが少なくなった現代人に激しい咀嚼の機会を与えてくれますし、「噛めば噛むほど味が出る」という、ツマミの原点を教えてくれる気がします。
最近あまり売っているところも見ないスルメですが、スーパーなどの乾燥魚介類コーナー(ツマミのコーナーではないことが多い)などにひっそりと置かれていますので、見かけたらいちど試してみることをお勧めします。日本人が忘れかけている素朴な味わいが口の中によみがえってきますよ。
で、民主主義が人間にうまく運用できているかというと、実はまったくそうではないのではないかと思わされることがあります。その根拠は、現在の民主主義が、「多数決」という、全く低次元な意思決定方法に頼って運用されていることです。
戦後の日本人は、多数決が民主主義の原則で、これに従う限り民主主義の下に国民の意思と権利は尊重されるのだ、と教わってきました。 しかし、実際のところ多数決は、色んな局面で全く用をなさない場合が生じます。以下のような場合です。
二つ目は、例えば候補者が二人、60%と40%の支持者がいたとします。どちらの当選者も、当選した暁には自分を支持してくれた人たちへ何らかの形で利益還流がなされるのが通例だった場合(日本には実際これが多いのです)、平等に徴収された税金が、当選した側の支持者に優先的に還流されることになります。こういう場合、そもそも多数決自体全く意味をなしません。しかし、多くの自治体の選挙は、こういう構図の中で行われています。
本来、民主主義の政治のシステムは、「全員が自分の利益を追求して行動した結果、全員にとって最善の結果が自動的に得られるところに収束する」ようになっていなければなりません。「神の見えざる手」のように、利害がバランスするポイントが自動的に決まるようなシステムが求められているのです。
残念ながら、「多数決」はこの能力に全く欠けています。かといって、これに替わる策も人類は不幸にして持ち合わせていないようです。ですから、我々は、この多数決の問題をちゃんと認識して、多数決で決めてはいけないことを多数決で決めないようにするしかないのです。「多数決で決まったことなんだからみんな従って当然」というような意識を持たない事が、民主主義をよりよいものにしていくために必要なのです。
しかし、稀に例外もあります。それが今回のテーマにもなっている「逆ギレ」というものです。
この言葉、最初に出会ったのがいつだったのかはよく覚えていないのですが、初めて耳にしたときに「ものすごい日本語が出てきたもんだなぁ」と心底関心したことだけは覚えています。
意味としては、本来なら咎められたり責められたりしている側の人が、多少理不尽な理由でも怒り返すことで、責められていたことをウヤムヤにしてしまうことを言うようです。
この言葉が普及する前から「逆ギレ」を実行していた人はどのぐらいいるのでしょうか?本人は意識せずともある程度の数はいたのでしょうが、「逆ギレ」という、わかりやすく的確な日本語名がその行動に付けられるや、急速に社会に普及していったように思われます。
今では議論(というか言い争い)の手段の一つにまで登りつめてしまった「逆ギレ」という言葉のように、新しい言葉が沢山出てくることは、日本語の多様性を高め、さらには行動の多様性にもつながってくる可能性を持っています。若い人が新しい言葉を生み出したら、とりあえず使ってみるのもいいかもしれません。必ずしもいい言葉というわけじゃないのですが。「逆切れ」も。
余談ですが、「マッハムカツク」という言葉の選び方も最初聞いたとき衝撃を受けました。なかなか普通の言語感覚では出てこない形容ですね。
このバンドのボーカルの一人、名前はわからないのですが「Asesino」という曲を歌っているオネエサンが、僕の中学の時の社会科の恩師である門脇先生の声にそっくりなのです。もうこの曲を聴くたびに、中学時代の恩師の顔が浮かんでくるぐらい。
門脇先生は当時30代の小柄な女性で、サバサバした性格から結構人気のあった先生でした。この曲を聴くと、その先生がボディコンミニスカで歌い踊り狂っている絵がどうしても頭に浮かんでしまうのです。
この感動を誰かと分かち合いたい気持ちでいっぱいなのですが、残念ながら東京には中学時代の友人は全くおりません。この曲を聞かせて「をを!」と一緒にラジカセを指差して感動してもらえる相手がいないのです。
このままでは、この「ラス チカス デル カンのボーカルの声と門脇先生の声が劇似!」という奇跡が僕以外に誰にも知られていくことなく埋もれてしまうことになります。これは本当に残念でしかたありません。
もしこれを読んでいる人の中で80年代に丸亀の中学で門脇先生に社会を教わった人がいたら、ぜひここで「Asesino」という曲のサンプルを聴いてください。
あぁっ!誰かとこの感動を分かち合いたいっ!!
しかし門脇先生も、こんなことで教え子に思い出されているとは夢にも思ってないだろうなぁ・・・。
ぼくが上京した頃、それはそれはさぬきうどんに飢えていて、「さぬきうどん」の看板があるところには必ず一度は入ってみたりしていたのですが、その期待が失望に変わるのに時間はあまりかかりませんでした。当時の東京のうどん屋の経営者は、恐らく一度も香川でうどんをたべたことがないと思われる人ばかりだったのではないかと思います。
ところが、ここ3年ほどの間に状況は激変しました。香川に本社があるうどん屋が東京に進出してきたこともあるのですが、東京のうどん屋の中にも結構勉強しているなぁ、と思わせてくれるお店が増えてきたのです。これはとても喜ばしいことです。
多くのお店が「まだまだかなぁ」といったところではありますが、昔のように「さぬきうどんとかけ離れた何か」が出てくるようなことは少なくなったので、今後はかなり改善に向かっていくことでしょう。
ちなみに東京のうどん屋で「価格、雰囲気、味」のバランスでお勧めなのは、池袋西武デパートの屋上にある「かるかや」というお店です。いわゆる「デパート屋上遊園地」の中にあるんですが、タイミングが合うとかなりおいしいうどんを300円で食べることができます。その隣のパルコにある「饂飩四国」は、チェーン店の割にかなりおいしいのですが、かなり値段が高いです。うどんに1000円近く出す勇気があれば一度食べてみるといいと思います。
この人、何がいいって、声がすばらしいのです。ただ、声楽の先生にこの人の声を聞かせたりしたら「もっと腹から声を出せ!腹筋に力が入ってない!ノドで歌うな。胸に響かせるな!頭の後ろから声を抜け!」と散々な評価を受けるでしょう。彼の声はまさに声楽的な声とは全く反対の方向を向いた声で、胸からノドにかけて響かせ鼻から抜けていくような声なのです。
この声、聞いているだけでなんと言うか若い頃の甘酸っぱいというか成熟していないというか、「若かったなぁ、あの頃は」というような感情がよみがえってきて、上手い下手以前に精神の部分に直接訴えてくるようなところがあります。で、僕はとても気に入っているのです
声は申し分なし。曲もまずまずです。ただ残念なことに、彼の書く詞は僕にはちょっとハズカシすぎるのです。曲名を挙げるだけでもそのニュアンスは十分伝わると思うのですが、「ハートのルージュ」「スケッチ記念日」「哀しみにさようなら」「恋は幻」「微笑がえし」「恋はラベンダー」「迷子の天使」といった具合で、今風に言えば「イタイ」のですよ。
この詞のイタさ具合が、この人が今ひとつ長者番付に乗れるところに来ない原因の一つなのではないかと僕は思っているのでが、聞いたところによると彼は「自分で書いた詞と曲以外は絶対に歌わない」ということらしいので、このまま彼らしさを発揮しつづけて、息の長いコアなファンの心を掴みつづけていくのでしょう。
最近は売れ続けることばかり考えてプレッシャーでおかしくなってしまうミュージシャンも多いようですから、こういった「自分のペース」で活動を地道に続けるミュージシャンは貴重なのではないでしょうか。それは一重に所属事務所が彼のペースを守り続けてあげられるかどうかにかかっているんですが。
実はこの「小栗虫太郎」という小説家、僕にとっては因縁があるのです。小学生の頃、当時流行っていた「宇宙戦艦ヤマト」の小説版と並ぶようにこの小栗虫太郎の「潜航艇鷹の城」という文庫本が置かれていて、当時ヤマトファンだった僕はなけなしの小遣いをはたいてこの「鷹の城」を買ってしまったのです。
で、うちに帰ってこの本を読んだ小学生の僕は、短編を二日がかりで読んで、「なんだかさっぱりわからない小説だなぁ」と思ったのでした。わくわくするようなSFでもなく、U-Boatのような息詰まる海洋戦争小説でなかったその本は、いつのまにか僕の本棚に埋もれて行きました。
その「小栗虫太郎」に、35歳の僕が再び出会ってしまったのです。これは雪辱戦を挑まないわけにはいかないでしょう。と、その本を手にとってレジに並んでしまったのです。
で、改めて読んでみたのですが、この本、今の僕がよんでも十分に難しすぎる本でした。たった40ページ足らずの短編小説ですら、一息に読めるほど集中力が続かない。それほど難しい本なのです。小学生に読めるわけがなかったと、今更ながら当時を反省してしまいました。
どれぐらい難しいかというと、例えば「聖アレキセイ寺院の惨劇」という作品の中の、主人公たる法水麟太郎(のりみずりんたろう)の台詞の一つはこんな感じです。
「と云うのは、僕がさっき、自分の心霊を一つの花園と考え、そこに主が歩みたもうと想像するこそ楽しからずや――と云ったっけね。その時ジナイーダは確かに驚いたらしい。無論僕のつもりでは、それを一つの脅迫的な比喩として使ったに過ぎないのだが、しかしジナイーダを驚かせたのは、自分が犯人に擬せられたのを悟ったからではない。元来犯罪者と云うものは、そう云う点には予め用意があるものだからね。では、なぜかと云うと、その一句の文章と云うのが、自身の不思議な夢幻状態を語った、カルメル派の創始者聖テレザの言葉だからだよ。西班牙(スペイン)の女はカルメンだけと思っちゃ間違いだぜ。その昔、神秘神学の一派を率いて、物体浮揚(レヴィテーション)や両所存在(ビロケーション)まで行ったと云う偉大な神秘家がいたのだ。それにもう一つ――これはまず日本に五百人と馴染のない顔だけど、聖テレザの後継者と呼ばれる僧モリノスの画像が、寝台の横手の壁にかかっていたからだよ。」
実に見事な日本語で、意味もちゃんととおっているのですが、なんと言うかとても飲み下しにくいのですね。わからないわけではないのですが、ちょっと油断していると頭の中を言葉が素通りしていくのです。普通の本を読んでいるペースでこの作品を一気に読んでしまうと、最後まで読んだのに犯人が誰だったのかよくわからなかった、という悲劇まで起こりかねません。
ちなみにこの作品は青空文庫で公開されていますので、上のクリックで全文を読むことができます。皆さんも是非トライしてください。
恐ろしいことに、この人が書いた長編小説というのがありまして、「黒死館殺人事件」というのですが、こちらも難解極まりない作品のようです。太平洋戦争に出生する学徒が、一冊だけ持っていく本にこの本を選んだという話は有名らしいのですが、確かにこの本一冊あれば1ヶ月でも2ヶ月でも読みつづけることができそうです。
仕事を引退したら、のんびりこういう本を読むのもいいかもしれませんね。
うちの水槽のそんな侵入者の一つに、小さい小さい貝がいます。体長2〜3mmで、アワビのような一枚貝状をしており、水槽のガラス面に沢山へばりついています。調べてみたら「カワコザラガイ」というらしいです。
この小さな貝ですが、放っておくと際限なく増えていって、ガラス面を覆い尽くすようになってしまうので、見つけ次第水槽に割り箸の類をつっこんでプチプチと潰しています。ルーペで見ると二つの目があったりして結構可愛いのですが、大量発生するととても見苦しいので、可愛そうですが減ってもらうしかありません。
毎日毎日20〜30匹のプチプチくんをプチプチと潰していると、それ以上増えることはないようなのですが、減ることもありません。毎日どこから沸いてくるのか、きっちり同じぐらいの数のプチプチくんがガラス面にくっついています。
いつの間にやらこのプチプチくんとの戦いは仕事に出る前の日課になってしまい、梱包用のビニールプチプチを潰すようなある種のある種の快感を伴うようになってしまいました。自分の中にまだ少しだけ残っている狩猟本能のようなものも満たしてくれます。なんと言うか、トムとジェリーにも似た追いつ追われつの関係が続いているわけですね。全くいなくなってしまうとちょっと一日の始まりが寂しいかもしれません。
一般にはあまりなじみがないかもしれませんが、この機械、一見普通の安っぽいDVDプレイヤーに見えるのですが、実はDVDに焼かれたDivXファイルを再生することができます。DivXというのは、ここのところ流行り始めている動画の圧縮フォーマットで、640MBのCD-ROMに2時間、4GBのDVD-Rなら14時間の動画が入ってしまうという驚異的な圧縮率のフォーマットで、もちろん画質的にはDVDにかなわないのですが、「ギリギリ鑑賞に堪える」レベルの動画が、映画7本ぶん丸ごと1枚のDVDに入ってしまうのはちょっと便利すぎます。
さらにこの機械、もう一つ特徴がありまして、LAN経由でサーバに保存した動画ファイルを再生することができるのです。この機能を使うと、サーバ上のハードディスク120GBなり240GBなりが丸ごとメディアになってしまいます。映画数百本分をメディア交換なしでいつでもリモコン操作で呼び出して見ることができるようになってしまうのです。
これの機械とHD/DVDレコーダが揃ってしまうと、DVDでさえメディアを入れ替えるのが億劫になります。VHSのビデオテープなどは既に化石にしか見えません・・・・。
数年前にはじめてMP3に遭遇したとき、「音楽を聴くためにメディアを入れ替える時代はもうなくなりそうだなぁ」と思ったのですが、映像までもがこれほど早くメディア交換のない時代に突入しようとは想像することもできませんでした。
こういう動画サーバ用のリビング端末はまだまだマニアックな存在ですが、やがてどの家庭にも当たり前のように置かれているようになるんでしょうね。その頃には動画サーバはレンタルビデオ屋に直結していて、いつでも映画が自由に見られるようになっているのでしょう。
で、ある日気付いたのですが、いわゆる独立して自営業をやっている人には次の二種類がいるようなのです。
家に仕事を持ち帰って、期限までに仕事を仕上げて持っていくというのは、かなり強い責任感と強靭な精神力が必要になります。元々締め切りがきつい仕事ならなおさらです。家で仕事をしていると「なんとなく気が向かない」とか「見てないビデオがある」とか「新聞配達の営業が着た」とか「明和地所からマンション購入をすすめるしつこい電話がかかった」とか、仕事を進めないままダラダラと時間を過ごしてしまいがちになります。
僕も時折そういう状態に落ちることはあるのですが、幸いにして今まで仕事を落としたことはありません。限界ギリギリになる頃に自分で無理やり自分にエンジンをかけて仕事に向かわせます。一度作業に乗ってくれば逆に作業から離れることのほうが苦痛になることもあります。
それでもイヤイヤながら進めなければならない作業もあります。そういったときは、ポッキーや麦チョコを買ってきて、一機能書いたらポッキー1本、一行書いたら麦チョコ一個といった具合に細かく自分にご褒美を与えて何とか乗り切ります。だからきつい仕事が入ると太ってしまうのですが。
それでも、期限に仕事をなんとか仕上げて、納品した後のすがすがしさは何物にも代えがたいものがあります。まさに「自分で自分を誉めてあげたい」気分になるのですね。これがあるから自営業を続けられるのかもしれません。
「うな坊」は、浜松の浜名湖で名産の「うなぎ」をモチーフにした地域限定キャラクターで、みうらじゅん言うところのいわゆる「ゆるキャラ」です。うなぎの長さは短くデフォルメされ、オバQのような目と口を与えられています。
以前白浜の方に旅行したとき、浜名湖サービスエリアで見かけた記憶はありました。ただ、その時には気にもとめませんでした。
が、この、よく言えば愛らしい、言い方を変えればバカっぽい顔をデスクの前にぶら下げて毎日見ていると、最初は「なんだかなぁ・・・」と思っていたのですが、不思議なことにだんだん好きになってきたのです。で、ある日突然「そうだ、浜名湖行こう」と、東京から女房を横に乗せて車を走らせ、東名の浜名湖サービスエリアまで出かけてしまいました。両手で抱きかかえられるぐらいの「大きなうな坊」がどうしても欲しくなってしまったのです。
で、浜名湖サービスエリアにたどり付き、以前みた覚えのあるキャラクータグッズのコーナーに行ってみると・・・そこにあったのは「うな坊」ではなく「ハマちゃん(というような名前だったような・・・)」という別のキャラクターでした。すでに「うな坊」は販売不振のためか世代交代の波に飲まれてしまったのです。ちなみに後継のハマちゃん(仮称)は、セーラー服を着たうなぎ、といったいでたちのキャラクターでした
やはりあのちょっとバカっぽい顔が受けなかったのでしょうか。
しかしその後「ハマちゃん」もその座を追われ、現在は「うなぎのうっき〜」が浜名湖キャラクターの役割を担っているようです。本当に淘汰の激しい世界ですね。
今ではGoogleで「うな坊」を検索しても、ほとんど情報はないようです。ヤフオクに出てるのも見たことがありません。このBlogをお読みの方で、詳細な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非katayama@randmax.jp(←半角に変換してください)まで情報をお寄せくださいませ。もしかしたら今世界で一番「うな坊」を愛している人間はこの僕かもしれませんので。
よく、電車やバス、飛行機の中で泣き喚いている子供がいます。周りにはとても迷惑なので、多くの親は子供をなだめすかしてなんとか黙らせようとします。周囲の人にしても、「子供がうるさいなぁ」という気持ちと同じぐらい「親はちゃんと黙らせろよ」と思っているものです。
以前もテレビの何かの番組で、コメンテーターが「車内で子供が泣くのはしょうがないけど、親がそれを静かにさせる努力をしてなかったり、うるさい子供を申し訳なさそうにしていなかったりすると腹が立つ」ということを言っていました。
こういった意見を言うのは、恐らく自分では子供を育てていないからなのではないかと思います。完全に傍観者の考え方になっていますし。
うちの子は1歳半ですが、そろそろ物事の因果関係というか、自分と親、社会との関係が分かり始めてきたようです。すると、自分の欲求を満たしてもらうために何をすればいいのかが分かってきます。
その欲求が「お腹がすいた」とか「パンツ変えて欲しい」とか「眠い」とかなら親はそれに全力で応えてやる必要があるのですが、中には「ここから出たい」とか「あれに触りたい」とか「あれをもっと近くで見たい」とか、路上で安全を考えるとすぐには容認できないものも多々あります。
そんなときは、手を引っ張ったり、頭を押さえたり、後ろから抱きかかえたりして制止をすることになります。で、動きを封じられた子供は、最後の手段として「泣く」ことや「大声でわめく」ことを始めるのです。
声だけは口を押さえるわけにはいかないので、親はホトホト困ることになります。これが閉じた空間を共有する飛行機や電車の中で起こったのが、最初の状態なのです。
親としては、ここで子供のご機嫌をとってしまうと、子供に「電車の中では大声を出せばなんでも言うことを聞いてもらえる」ということを教えてしまうことになってしまいます。とりあえず子供の機嫌をとることで現状はよくなっても、長期的にはもっと悪い状況を引き起こすことになります。
このため、親にもよりますが子供に甘い経験をさせないよう、「無視」の態度を取るのです。「車内で泣きわめいても、疲れるだけでいいことはなにもない」ということを体で覚えてもらうわけです。
電車の中で泣き喚く子供を放置する親の全てがそうだとは言いませんが、親の側にはそういう事情があり、心を鬼にして「泣き叫ぶ子供を放置するひどい親」を演じていることもあるのだということを、電車に乗る人はちょっと心の隅に置いておいていただければと思います。
この件に関して小泉首相は、「次の選挙で勝つことが君の仕事だから、と言われていた」と語っています。だから雇用契約は成立していて、ちゃんと選挙で勝つ努力をするという仕事をしていたのだ、というわけです。ちなみに彼にその間給料を払っていたのは不動産関連の会社らしいです。
ほんとにもう、こういうことを国会の答弁で「いけしゃあしゃあ」と言われてしまうこと自体、完全に国民はなめられきっているとしか言いようがありません。
この件はすでに年金の話ではありません。
つまりこれは政治倫理に抵触する話なのです。
恐らく小泉首相には、こういう献金の受け方が実際には政治資金規制法の網の目をくぐったもので、罰せられたり追求されたりする心配はない、という確信があるのでしょう。ですが、現行法がどうあれ、このことは国民に対する明確な背任であることは明らかです。
実際には、どの政党のどの候補者も、多かれ少なかれ誰かの息がかかっていて、その人の力で権力を手にしていて、その権力の一部をその人に還元している、ということは程度の差こそあれ同じようなものなのでしょう。他の政党がこのことに突っ込みを入れないのも、そのせいでしょう。
しかし、このことは基本的に「言わない約束」であったはずです。政治のタテマエはあくまで国民のためであり、政治家やその後援者のためのものではないのです。タテマエは。だから、タテマエを云々する国会という場で、「次の選挙で勝つことが君の仕事だから、と言われていた」という言葉が出てくること自体、本当に国民がなめられきっている証拠としかとらえられないのです。
法に触れない悪事は、国会でしゃべっても全然大丈夫。
と、小泉首相は思っているわけです。とても子供に見せられるものではありませんね。
小泉首相がこの件で追求をうけるかどうかは分かりません。今は他にももっと議論することが山ほどありますから、恐らくうやむやにされてしまうでしょう。しかし、国民はもう少しこういう政治家の厚顔無恥な発言に怒りを感じる神経を持つべきなのではないでしょうか。
ドラえもんの「のび太」の例を見るまでもなく、「両親は口うるさいけどおじいちゃんやおばあちゃんはやさしかった」という印象の人は少なくないと思います。祖母、祖父は孫にやさしいんですよね。
「どうしてこんなに可愛いのかよ〜」と歌われるほど可愛い孫ですが、その問いにあえてマジレスするなら、答えは「いくら可愛がってもいいから」でしょう。
両親も本当は子供をいつまでも可愛がっていたいのです。でも、あまり甘やかせ過ぎると、自分も後で大変だし、子供自信の将来を考えてもよくない。だから親は甘やかせたい心にブレーキをかけて、子供に厳しく接する必要があります。でも、おじいちゃんやおばあちゃんはその必要がないのですね。しつけは親の責任だし、ずっと一緒にいるのは自分ではないのだから、好きなだけ甘やかせられます。これは本当に幸せなことです。
僕も早くおじいちゃんになって、孫と遊びたいもんです。そのためにはまず、自分の子供をちゃんとした大人に育て上げなければならないのですが。