先日知人と話をしていて、その答えになりそうなことを聞きました。まとめるとこんなところです。
VB.netがなかなか普及しない理由は、
VBで新人研修を受け、ずっとそれでやって来れた人は、自分が今まで勉強してきたことが全部ゴミバコ行きになるという大変動を一度も経験していません。今30歳弱ぐらいのプログラマには、初めて触ったコンピュータがWindowsで、初めてプログラミングした言語がVB、という人が少なくありません。
こういう人がプロジェクトを引っ張っていく側になってしまい、どうしても保守的な選択をすることが多くなっているのだと思います。
僕が通っているいくつかのソフトウェア会社(業務系)の多くにも確かに、こういう傾向が見られます。僕の素直な感想です。若手の人はどこも優秀な人が多く、それなりに新しいこともみんなよく勉強していると思います。ただ「失敗できないプロジェクトに新しい開発環境(言語)でトライする度胸がない」だけなのだと思います。
開発言語やOSの大掛かりなパラダイムシフトをまだ経験してないからなのでしょう。僕の世代(現在30代後半組)は、DOSのC言語からWindowsのC言語を経てWindowsのC++やVBへと何度も「知識のゴミバコ行き」を経験してきました。だからVB.Netが来ようとJavaが来ようと「また来たか」ぐらいにしか思いません。
30代前後の業務系エンジニアは、そろそろ最初の波を超えていく時期に入っているのだと思います。それにしてもたった5歳ぐらいの違いでこれほどの経験の差が出るほど、90年〜95年ぐらいの間には大きな動きがあったのですね。次の5年にもまた大きな波がやってくるのでしょう。そのころ40代になってしまう僕はその波を越えられるのでしょうか・・・
このことにはまぁいろいろな段階でツッコミが入りました。
そういう僕がオススメしたかったのが、山崎まさよし/SMAPの「セロリ」です。ずいぶんヒットした曲なので、知らない人はあまりいないんじゃないかと思いますが、僕がこの曲をサミットのテーマソングに推す理由は以下のとおりです。
まさにサミットの主題歌としてぴったりではないですか。ちょっと国際関係の歌としては奇麗事が入りすぎているかもしれませんが、主題歌というものはこれぐらいでちょうどいいのです。
こうして考えると、日本はサミットのテーマソングについてつくづくまずい決断をしたもんだなぁと思うのです。
ということを書いていてふと今思ったのですが、もしかして沖縄サミットの実際のテーマソング「ネバーエンド」は「君が代」のパロディだったのでしょうか?「ネーバエーンド!私達の未来はぁ」だもんなぁ。サミットのテーマソングを踏み台にして次期国歌の座を狙っていたとか・・・・(((( ;゜Д゜)))ガクガクブルブル
子供の「しまじろう」をDVDで見るためにという名目で予算を獲得したものなのですが、実際に使ってみるとほとんどDVDは使わず、もっぱらHDレコーダとしての用途が大半です。
元々ウチではあまりテレビを見るということに執着はありませんでした。僕も女房も決められた時間にテレビの前に陣取るということが苦手で、僕などは東京でかれこれ15年以上も暮らしていながら、何チャンネルが何放送なのかよくわかっていなかったほどです。
ですが、HDレコーダを導入してから何かが変わりました。これがあると、テレビに時間を縛られる必要が全くないのです。これまで全くテレビを見なかったわけではなく、なんとなくテレビをつけても面白いものをやっていないとすぐに切ってしまうような状態だったのですが、「いつでも見られるならまぁ見てもいいだろう」というような番組は結構あります。そういう番組を1日2時間程度毎週自動的に録画するようにしておけば、それだけでテレビに要求される需要は十分満たされてしまうのです。
これは僕らにはいいことづくめなのですが、冒頭に言ったようにCMを見なくなってしまうのです。HDレコーダはボタン一発でCMを飛ばすことができます。最近はバラエティ番組などを中心に「CM前にものすごく引っ張る」ものが増えてきたので、余計CMを見る気がなくなってしまいます。
こういう人たちが今後増えていくと、「毎週見てもいいような、面白い番組、要するに視聴率が高い番組ほど、CMは見てもらえなくなる」という逆転現象が生じてきます。
このことに今後テレビ業界はどう対応していくのでしょうか。CMの広告料で番組を放送するという、民法始まって以来のビジネスモデルに今最大の危機が訪れようとしているように思えます。
で、インターネットを検索してみるのですが、これに関する日本語のわかりやすい説明はないようなのです。なので自分で書いてみました。
結論から言うと、リストボックス(またはコンボボックス)にアイテムをセットする際、String型をセットするのではなく、クラスから作成したオブジェクトをセットするようにします。その際、そのクラスにtoStringメソッドをオーバーライドしておくのがミソです。こうすることで、リストボックスが画面に一覧を表示する場合、オブジェクトのどの値を使えばよいかを示すことができます。
以下がサンプルソースです。フォーム上にComboBox1(コンボボックス)とLabel1(ラベル)が配置されていることが前提のソースになっています。
Public Class Form1 Inherits System.Windows.Forms.Form #Region " Windows フォーム デザイナで生成されたコード " '----筆者省略 #End Region Private Sub Form1_Load(ByVal sender As System.Object, ByVal e As System.EventArgs) Handles MyBase.Load ComboBox1.Items.Add(New ListItems("最初の項目", 0)) ComboBox1.Items.Add(New ListItems("二個目の項目", 2)) ComboBox1.Items.Add(New ListItems("三個目の項目", 5)) End Sub Private Sub ComboBox1_SelectedIndexChanged(ByVal sender As System.Object, ByVal e As System.EventArgs) _ Handles ComboBox1.SelectedIndexChanged Label1.Text = "値=" & ComboBox1.Items(ComboBox1.SelectedIndex).itemvalue End Sub End Class Public Class ListItems Public ItemString As String Public ItemValue As Integer Public Sub New(ByVal Str As String, ByVal Val As Integer) ItemString = Str ItemValue = Val End Sub Public Overrides Function toString() As String Return ItemString End Function End Class
VB6.0では項目に対応する値に数値しかセットすることができませんでしたが、VB.NETではこの方法を使うことで、あらゆる型のデータを項目に割り当てることができるようになったわけです。
やっとプログラマらしいネタが出てきたなぁ。
ちなみにベースは「ヤマハ TRB-6PII」「VanZandt JB」「VanZandt JB FL」。VanZandtは海外メーカだと思われるかもしれませんが、ピックアップ以外はPGMで作っているれっきとした国産の楽器です。VanZandtを入手する前はMoonのJJとヤマハのBB-2000でした。
ギターは「ヤマハ SF-1000」と黒澤楽器がやってる「Stafford FGC-2200(セミアコ)」。
先日MIDIシーケンスソフトを買った時には、SteinburgのCubaseを買うつもりで行ったのに、結局店頭で考えに考えあぐねて「シンガーソングライター」という国産ソフトを買ってしまいました。
全てに共通して言えるのは「性能の割に価格がリーゾナブル」ということなのでしょうが、それにしても楽器関係だけがここまで国産品で揃っているのは自分でも意外です。
対してコンピュータ関連は何故か海外品ばかりです。OSしかり、CPUしかり、ビデオカードしかり。
こう考えると、日本の音楽業界は自動車やカメラ並に頑張っていると言えるのではないでしょうか。中でも「シンガーソングライター」を作っている「インターネット」社は、海外ソフトが群雄割拠する中、本当によく頑張っていると思います。ただ、社名もソフト名もちょっといただけないのが残念な点なのですが・・・。
どのへんが凶器なのかと言いますと、たとえば上りエスカレータの降りたところで、手すりがループを描いて引き込まれていきますが、この引き込みの部分がちょうど子供がハイハイするときに目の高さなのです。しかも、まさに手が届くところに引き込みがあり、手すりがスムースに引き込まれるようにするため、手すりの周囲に1cm弱の余裕が設けられています。そこに毎秒数十センチの勢いで、しかもすさまじいトルクでゴム製の手すりが引き込まれていっているのです。ここに子供が興味半分に手を挿し込んだら・・と考えると心底ぞっとします。
今街中にはエスカレータがあふれ返っていますが、幸いにもエスカレータの手すり引き込み部分に子供が手を引き込まれたという話は聞きません。僕が知らないだけかもしれませんが。これはおそらく親や設置者がエスカレータの危険性を認識しているからでしょう。
先日六本木ヒルズの回転ドアで不幸な事故がありました。まだまだ日本では回転ドアの普及率が低く、そう頻繁に目にするものではありません。だから大人の間にも危険性を認知している人はあまり多くなかったのではないでしょうか。
今回の事故で、回転ドア自体にもより高い安全対策が施されることになるでしょうし、大人の間にも回転ドアは危険なものだという知識が強烈に植え付けられたと思います。今後こうした事故は減っていくことでしょう(回転ドア自体が減っていく可能性もありますが)。
ただ、それ以前に回転ドアがこれまで持ってきた「ちょっと都会的でオシャレでデザイナーズな雰囲気」というのを一度捨てることを検討するべきではないかと思います。
例えばエスカレータは、全国どこに言っても床が黒く、段と段の境目は黄色で塗られています。しかも乗り口付近には常に安全を促すアナウンスが流れています。こういう「工事現場」のような配色が、利用者に無意識に危険に対する心構えを促しているのです。
回転ドアは、ファッションビルの入り口などにつけられることが多く、地方都市のデパートなどに設置されるとそれ自体が呼び物になるようなところがありますから、見た目を気にする気持ちもわかるのですが、そろそろ「危険カラー」を取り入れていくべきなのではないかと思うのです。
回転ドアには省エネなどのメリットも多くあります。危険だからと言って撤去する前に、デザインやカラーリングを見直すべきなのではないでしょうか。
ここまではまるでいいことづくめなのですが、こうなると逆の問題も出てきます。「いったいこれほどの量の映像を見返すなどということがあるのだろうか」という疑問です。
テレビのゴールデンタイムに放送されるような娯楽映画は、よっぽどのことがない限りまた見直したりすることはありません。また見直したくなるような映画ももちろん沢山あるのですが、世の中には「いつかは見ないと死ねないけど、まだ見てない映画」というものも沢山あります。一度見た映画を見返している時間的余裕はなかなかできそうにありません。
普通に働いていると、一日にテレビの前に座っていられる時間はたかだか2時間程度です。毎日映画を一本は見られることになりますが、今テレビで深夜に放送されている「24(twenty four)」といった連続モノのドラマを録画して見ようとすると12日間かかってしまいます。これ以外にも「古畑任三郎」とか「TRICK」とか「ツインピークス(古い!)」とか、全部見るのもなかなか大変なドラマが世の中には山ほどあります。映画よりもこちらの方がずっと事態は深刻かもしれません。
さらに特にアニメオタクというわけでもなくとも、小さい頃見ていたアニメシリーズがDVDで発売されることが多い昨今、「未来少年コナン」や「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」なんかを思い出に浸りながら見たくなることもあるでしょう。アニメは見始めるとハマってしまって、「金曜の夜から月曜の朝までほとんどずっと見てた」という悲劇も起こりがちです。
こう考えると、一度見た映像をもう一度見直すということはほとんどないのではないか、という気さえしてきます。万一どうしても見たい、ということになってからレンタルビデオ屋に走っても、その万一のためにかかる全ての映像を保管するコストを考えれば十分に割があうようにも思えます。
そんなことは分かっているのです。分かってはいるんですが、どうしてもHDからあふれた映像をシコシコとDVD-Rにダビングしてしまう今日この頃なのです。
そう言う僕は自営業者なので、基本的に固定の休みはありません。まぁ契約で通っていると、その会社の休みに必然的に合わせることになるのですが、それでも仕事がそれほど忙しくなければ平日に休みをもらう事もさほど難しくありません。何より、仕事を入れなければずっと休みにできます。収入がなくなるのが困りものですが。
ゴールデンウィークや盆・正月が近づくといつも問題になるのが道路の渋滞や公共交通機関のラッシュです。僕はずらして取れるからひとごとにしていられるのですが、子供を連れて新幹線のホームに並ぶ夫婦や渋滞の中寝ている家族を安全に運ぶために運転しているお父さんのことを考えると、なんとかならないものかとつい考えてしまいます。
そもそも、休みをみんなで一斉に取る必要というのはどこから出てきたのでしょうか?祝日を定めるのはいいと思うのですが、その日を休みにしなくとも祝う方法はいくらでもあるはずです。祝日が休みになることによって、むしろ祝日は「何の日だったか忘れたけどとにかく休みの日」という立場に落ちているようにも思えます。
いっそのこと、休みをみんなずらしてしまえばいいのではないでしょうか。以下のようにして。
もともと国民の大部分がクリスチャンというわけでもないのですから、日曜に国民が一斉に休む必要などないはずです。そろそろ「全員足並みを揃えて歩く美学」を改めて「バラバラに動くことで全体的に協調していく」ような社会を考えて行くべきなのではないかと思うのです。
ところで曲は頭に浮かんでいるのに曲名がどうしても出てこない、という時に有効な検索方法というのはあるのでしょうか?楽譜を理解できるレベルの人ならいくらでも検索方法を提案することはできるのですが、「音楽は聴くことしかしない」人を相手に検索システムを提案するとなるとこれは「コンピュータ業界に与えられた大きなテーマの一つ」と言ってしまいたくなるほど奥の深い課題です。
例えば、昔「ウィークエンダー」という番組でとても印象的な音楽が使われていました。30代半ばならば、夜中に親に隠れてドキドキしながら「新聞によりますと・・・」という名調子を聞いた記憶がある人も多いのではないでしょうか(自伝的表現)。この音楽、僕は「クインシー・ジョーンズ」というミュージシャンの曲の一部だということだけは覚えていたのですが、曲名が出てきません。そこで、Googleに行き「パッ ラッパ クインシー ジョーンズ」で検索してみたら、曲名が「鬼警部アイアンサンドのテーマ曲」であることを書いてくれているサイトが結構ひっかかってきてちょっと感動しました。
まぁこれは作曲者を知っていたからできたことで、いくらなんでも「パッ ラッパ」だけで検索することは無理でしょう。しかも人によってこの曲は「パッ パラッパ ラッパー」にも「チャッ チャラッカ ラッカー」にも聞こえてしまうのです(他にも「パッ パラーパ パー ラッパー」「パッ パッラ パラッパ〜」などの表現あり)。この方法で何でも検索するのは難しそうです。
今日の収穫は、先ほど「クシコスポスト」の音を聞いた「Yahoo!着メロ」がこういうときに意外と便利だということです。全く手がかりがない場合は全部聞くよりないのですが、結構沢山の曲のメロディを聴くことができますので、作曲者のアタリだけでも付いていればクラシックの曲などは結構曲名を調べることはできます。
メロディから曲名と作曲者を調べる需要って結構ありそうな気もするのですが、なかなか難しそうですね・・・。結局「ものすごく曲を知ってる人」に聞くのが一番早いのでしょうか。
そもそも、人間は文字や言葉を利用して意思を他者や後世に伝えることで進歩をしてきたはずです。森に生えていた変なきのこを食べて死んだ人がいたら、そのきのこは食べてはいけないとう知識が広まり、新たな犠牲者を出すことを防ぐことができるわけです。
確かにそれは大切なことなのですが、賢いゾウの話を思い出すとこの人類の叡智にも疑問が湧いてきます。
「永久機関」は人類の夢の一つですが、現在ではほぼ完全に存在が否定されています。その最大の根拠は「エネルギー保存の法則」です。「エネルギーは形を変えることはあっても総量は同じなので、摩擦などで発散されてしまうエネルギーがある限り無限に動きつづけるものは作れない」というのが永久機関を否定する人の論理です。
確かに現在永久機関はまだ作られていません。これからも作られないかもしれません。しかし、ここで人は賢いゾウの話を思い出すべきなのです。
「エネルギー保存の法則」は、何も神様に教えてもらったわけではなく、人間が経験則から導き出したものです。この法則は確かに美しく、わかりやすく、身の回りのものが全てそれで説明できてしまうほど汎用性の高い法則です。しかし、だからといって自然の側が人間の決めたエネルギー保存の法則に従う義理はないはずです。エネルギー保存の法則を作ることで、それに反するものは人間には作れないと決め付けてしまうと、それを打ち破るものは本当に出てこなくなります。それはまさに賢いゾウの愚かさそのものです。
モデム全盛期、アナログの電話回線の理論上の限界は56Kbpsという話が通信業界の間に信憑性を持って語られていました。これ以上の速度はISDNのデジタル回線に移行するしかない、というわけです。しかしこの時期にADSLの基礎研究をしていた人がいたからこそ、現在のように電話回線で8Mbpsというような桁外れの通信速度を得ることができるようになったのです。
「なぜ永久機関はできないの?」という問いに「エネルギー保存の法則があるから」としか答えられない人は、「聖書に書いてあるから」という答えと同じ次元のことを語っているに等しいことを自覚しましょう。そういう目で自分の仕事や生活を見回してみると、今まで自分が「存在しない壁にぶつかって引き返していた」ことに気づくことがあるかも知れません。
もし万事うまくいったとしたら、何がよかったのでしょうか?もしうまくいっていなかったとたら、どうすべきなのでしょうか?
今回の誘拐事件の大きなポイントは、「誘拐した人間がどこの誰で、どこにいるか全く分からない政治犯」であるということです。こういう場合には「誰もが誘拐犯になりすませる」という点を最初に考えなければなりません。
それは政府も報道側も分かっているようで、人質解放の声明も本当に誘拐犯から出されたものだと断定されるような発言はないようです。つまり、「親イラク」の側からニセの声明を出すこともありえるし、逆に日本の側からもニセの声明を出すことだってできるわけです。
誘拐犯が本当に自衛隊の撤退などの目的を持ち、今回の誘拐でそれが実現できると信じている連中なら、一番困るのは「日本政府から自衛隊は撤退しないという声明が出る」ということではありません。どこか知らないところから勝手な声明が出てきてうまく意思が伝わらないということです。
ですから、今回のようなケースでは「色んな声明を武装グループの名前で勝手に出して相手を混乱させ、自分も混乱する」というのが結構有効なのではないかと思うのです。例えば、
武装グループとて、日本に撤退の意思が条件によってはある、ということが伝われば(実際にはなくとも)人質が殺されてしまう可能性も減るでしょうし、もしその意思があるのに変な声明のせいで取引がうまくいかないようなことになっては元も子もなくなると感じるでしょうから、こういう声明が沢山出てきてお互いにどれが真偽なのか混乱している段階では期限を伸ばす決断もされやすくなります。こういうやり方は、伝言ダイヤルのサクラ嬢が相手と会う約束をしつつも待ち合わせ場所や時間をわざと間違えたりすれ違ったりしてサービス料を稼いでいくテクニックがそのまま使えそうです。
そうこうしているうちに時間稼ぎもできるでしょうし、それにも増して本当の誘拐犯が危険を冒してまで再度テレビ局や政府などにコンタクトを取ってくる可能性が高くなります。それはつまり、誘拐犯とその所在を特定するチャンスが増えるということです。
もしかすると、今回の「24時間以内に人質を解放する」という声明自体、日本政府がこっそりアル・ジャジーラに持ち込んだものなのかもしれません。もしそうなら、日本政府もなかなかやるじゃないかと評価するのですが。さて、明日の朝にはどういうことになっているでしょうか・・・。
親の恩はさておき、この四人兄弟、全く同じ親で育ったにもかかわらず不思議なことに性格というか、何かを選択するときに全然違う選択肢を選んでしまう傾向があります。
例えば、長男と次男は国家公務員ですが、三男と四男は自営業(三男は去年就職しましたが)のようなことを長く続けております。また、上二人は日産の車を選ぶことが多いのですが、下二人はマツダ車を選ぶ傾向があります。
ざっと表にするとこんな感じです。
長男 | 次男 | 三男 | 四男(筆者) | |
職業 | 公務員 | 公務員 | 自営(去年就職) | 自営 |
若い頃の車 | フェアレディZ | スカイライン | RX-7(FC) | ユーノスロードスター |
携帯キャリア | ドコモ | ボーダフォン | au | TU−KA |
カメラ | ニコン(想像) | キヤノン(想像) | ミノルタ(想像) | ペンタックス |
これだけ明確にわかれると気持ちいいぐらいです。特に携帯のキャリアがちゃんと分かれているのは驚きました。ざっと見ると上二人は固く、下二人はやわらかいといったところでしょうか。最下行は確認してみたわけではないのですが、上三行の流れから行くとこんな感じになるのではないかと思います。ちなみに僕がペンタックスユーザーなのは本当です。
ウチの両親はずいぶん面白い育て方をしたもんだと思います。こういう「性格が出る」人間に育てるためにはどんなコツがあるのか聞いてみたいものです。それともコツなどなく、男四人育てるとこんなふうになっちゃうのでしょうか。
カテゴリ | メーカー | 商品 |
車 | マツダ | ユーノスロードスター |
バイク | スズキ | バンデッド400、ベクスター150 |
携帯キャリア | TU−KA | 京セラのTK-41 |
カメラ | ペンタックス | *ist−D |
時計(舶来) | ZENITH | レインボーフライバック(黒) |
時計(国産) | オリエント | 手巻き |
楽器1 | ヤマハ | TRB-6PII |
楽器2 | VanZandt | ジャズベース |
酒1 | ホッピービバレッジ | ホッピー |
酒2 | ニッカ | 竹鶴12年 |
とまぁ見事に人生裏街道な訳です。こうしてみると四男向けのマーケティングというのがはっきりとできそうですが、そもそも四男って少ないからなぁ。「だんご三兄弟」って唄が流行ったときも、何だか除け者になったみたいでショックだったし・・・。
児童館の書棚にあった「ひみつシリーズ」にもずいぶん遊んでもらったように思います。今でも「忍術、手品のひみつ」にあった「きれいなお米、きたない手」というギャグを覚えているぐらいです。
この「科学と学習」という本、最近では当時ほどの隆盛を無くしてしまっているらしいのです。当時から売り方に問題がある(学校の校門の前で営業の人ががんばってたり)といわれたこともあったりしたのですが、今は問題になるほどの事もなく悲しいほどにその規模は縮小されています。
こういった子供向けの科学書籍は他にも「子供の科学」などが有名ですが、これも今はかなり商業的に苦戦しているようです。
現在の学研は、マーケティングの矛先を「科学と学習世代」である大人に向け、「大人の科学」と称して大人向けの商品に力を入れるようになっています。これはこれで僕の世代にはわくわくするようなプロダクトなのですが、やはりこれは学研という会社が過去に担ってきた役割から逃避しているように思えてなりません。
僕は、いわゆる「ゆとり教育」を否定するものではありません。学校で一律に全員が勉強すべきラインは低くてかまわないと思っています。だからこそ、こういった副教材に頑張って欲しいと思うのです。子供が全て科学に興味を持つべきだとは言いません。ただ、科学に興味を持っている子供に、惜しみなく知識を投入してあげられるような社会を作ることは、技術の空洞化が叫ばれるこの国の未来のために必要だと思うのです。
子供の科学離れの原因の一つは、今の親たちの人の中にいわゆる「理系」を「文系」よりも一段下に見ている人が増えているということがあるのかもしれません。確かに官僚になるような人は確かに文系の人が多いですが、官僚だけで社会が動いていけるわけではありません。一番大切なことは、理系でも文系でも「実際に頭を動かして新しいものを考え、手を動かして物を作る」人たちに敬意を持ち、大切にすることです。確かに「人を上手に動かすことができる人」も世の中に必要ですが、実際に「動く」人とどちらが偉いという考えを捨て、お互いに支え合っていることを子供に教えていくべきなのではないでしょうか。
それまでも、布団を丸めて抱いて寝ているのに気付いた時など、微妙な自覚症状はあったのですが、抱き枕というそれ専用の道具を手にしてからは、自分が「何かやわらかいものを抱いて寝ないと熟睡できない」人間であるということがわかってしまいました。
子育ての文脈の中で「抱き癖」という言葉が出る場合は、「抱き癖がついてしまうと育てるのが大変」という意味で語られるケースが多いようです。これは親から見た「抱き癖」ですが、本人から見た場合、抱き癖というのは困ったことなのでしょうか?
僕自身の経験から言わせてもらえば、抱き癖はある程度あった方がいいのではないかと思います。だたし大きな条件があって、「同居人にも抱き癖がある場合」に限ります。
自分が朝起きた時、掛け布団を丸めて抱いて寝ていることに気付いた人は、是非抱き枕をお勧めします。今はマイクロビーズという、発泡スチロールの細かい粒を使ったものがあり、さわり心地も抱き心地も最高です。ちょっと買うのが恥ずかしいところもあるのですが・・・。
暴力がよくないのはもちろんなので捕まった男性の暴力を擁護する気は毛頭ないのですが、それでは「電車内で電話をしている人を見かけたらどうするべきなのか」ということに対して警察や学校、鉄道会社はオフィシャルにどう答えてくれるのでしょうか?
警察は「警察を呼べ」駅員は「車掌を呼べ」という答えなのでしょうが、実際問題走っている電車の中で警察を呼んだりすることは不可能ですし、車掌が乗っていたところで、呼んでくるまでに電話を切られてしまったら意味がありません。
ではその場にいる人が注意すべきなのでしょうか?それも疑問です。今回のように「全く無視された」場合は注意した人も抜いた刀を鞘に収める方法がなくなり、車内が大変気まずい雰囲気になります。それ以外にも、注意された女性が電車を降りて「あの人に痴漢された!」と訴え痴漢冤罪になってしまうというケースも実際に起こっています。痴漢冤罪は多くの場合警察が女性の側に同情的で、男性側が疑いを晴らすまでに大変な時間と苦労が必要になります。
また、最悪の場合は注意したせいで殴られるということになってしまうかもしれません。これもケガぐらいで済めば相手を訴えて慰謝料を請求することもできますが、殺されてしまっては元も子もありません。実際に電車内でマナーの注意をした人が殺される事件も起こっています。
正直なところ、僕はこういう「閉じられた空間を仕方なく共有している状態でマナーを守らない人」に注意をする勇気は持ち合わせていません。電車の場合は速やかに車両を移動するぐらいが関の山です。みっともない話ですがそれが現実です。
でもそういう時、車両を移りながら「なんでこんな後味の悪い気持ちにならないといけないんだろう」という疑問が頭の中で渦巻いています。車両を移らずずっと我慢している人もきっと同じ気持ちでしょう。
我々はこの気持ちをどこにぶつけたらいいのでしょうか?
それとは別に、ウチの子が凝視モードに入る映像があります。その一つが「しまじろう」で、月一回届くDVDを再生してしまいさえすれば、どんなに機嫌が悪くとも凝視モードになります。ちょっと恐ろしいほどです。あまりに便利なので多用してしまいそうになりますが、なるべく見せないように自制しています。
番外編ですが、ウチの子はこんなビデオも凝視します。
ジョン・パティトゥッチというベーシストの教則ビデオなのですが、どうやらこのカメラ目線にメロメロなようです。カメラ目線の人が音楽に合わせて動いている、という点だけを見れば「しまじろう」とそう違うものでもないのかもしれません。ちなみにこのビデオは全編英語で字幕すら出ないのですが、そんなことも彼には関係ないのでしょう。
実際のところ反米武装勢力がイラク国民の中でごく一部であるというのはそう間違った認識でもないだでしょう。それ以外の人の多くがフセイン政権で居心地の悪い思いをしていたことも本当かもしれません。ただ、それでは米軍を待ち望んでいたのかというと、それは「勘違いした正義の味方」も甚だしいと思うのです。
それでは「反米武装勢力以外の人」は何を望んでいるのでしょうか?おそらくそれは「平和」なのです。僕も結婚して子供を持ってから感じ始めたことではありますが、世の中が多少不公平で、住みにくくて、税金が高くて、自分以外の誰かが一人勝ちをしているような世の中だったとしても、その中で住んでいる自分に一番大切なのは「子供を銃弾や地雷のない世界で育てられる」ということなのです。
彼らにとって、自分を支配するのは誰だってかまわないのです。誰が支配しようと、ある程度の不自由、ある程度の義務や課税はあります。それは日本に住んでいようとイラクに住んでいようと、程度の差こそあれ同じようなものです。どの国でも大衆は常に政治に不満を持っています。西でも東でも北でも南でもこのことは変わりません。
要するに今のイラク国民の大部分は、フセイン政権に不満を持ってはいたけれど、生活の中に銃弾や爆弾が飛んでくることを容認してまでフセイン政権を倒したいとは思っていなかった人たちなのです。そういう人たちから見ると、ブッシュの掲げている「イラク国民を解放する」というスローガンはとても納得できるものではありません。「銃弾の雨が降る。その結果は別の支配者が来るだけ」なのですから。
アメリカは、この内戦状態を「一部の反米武装勢力のせい」にしようとしていますが、重火器を持って他国に侵入し、支配層を取り払い自分が居座ったアメリカのせいであることは疑う余地もありません。僕はフセインという人間を支持するものではありませんが、フセイン政権の下、あれだけ紛争の火種がある地域で一応戦火の止んだ時代がもたらされていたのもまた事実なのです。
多少反戦側に都合のいい写真ではありますが、イラク戦争の現場写真集へのリンクを張っておきます。痛ましい写真も沢山ありますが、アメリカの指示の下、自衛隊をイラクに送る我々には見ておく義務があると思います。これから先、イラクがどうなっていくのかは知る由もありませんが、かつてのカンボジアのように、宗教やイデオロギーが権益を争って内戦を続けるような世の中にだけはならないで欲しいと思います。こうなってしまった以上全てはアメリカの責任です。くれぐれも適当なイラク暫定政権を作って、その後の紛争は「内戦なんだから知らない」というような責任放棄だけはしないようにして欲しいものです。
それはまぁ律儀なことだと思ったのですが、同時に、同じ自営業である僕も「自営業冥利に尽きるなぁ」と思ったのです。
僕も独立当時は仕事が本当にあるのか不安で仕方がありませんでした。何の因果か、独立をして明日引越し、というその晩に「魔女の宅急便」という宮崎駿のアニメをテレビでやっていて、つい主人公のキキに共感して涙さえ浮かべてしまったことを覚えています。
自営業をやっていると、結局商売は「会社対人や会社対会社なのではなく、人対人」なのであることをしみじみと感じます。独立した僕に「大丈夫?仕事あるの?」と電話をかけてきてくれた人たちや、逆に会社を移ったり独立した人から「これからもよろしく」という連絡をもらうと、本当にこういう人の間のつながりで社会は動いているのだなぁと痛感させられます。
女房は結局駒込の美容院まで巣鴨からテクテク歩いて行きました。電車で行くには中途半端な距離なのです。彼女の顔を見た美容師は本当に心から喜んでくれたに違いありません。そして不安の中、商売を続けていくことに対する確かな自信を得たことでしょう。
それはそれとして、その独立した美容師というのは若いイケメン美容師なのではないかという不安も少しあったりするのですが・・・
その理由とはずばり、「酒」が置いてあるということに尽きます。池袋のビックカメラには酒だけを専門に扱っている店舗があり、かなりの品揃えを誇るのです。
最初、その店舗を見かけたときは、「ビックカメラも変なことを始めたもんだなぁ・・」ぐらいにしか思っていませんでした。しかししばらくして、その真意というか、自営業なりの存在意義に気付いてしまったのです。
僕はそれほど酒を大量に消費する人間ではありませんが、それでも酒代は「毎月ある程度、いずれにしても出て行く出費」に他なりません。それは近所の酒屋で買うこともありますし、コンビニで買うこともあります。しかし、このピック「酒」館で買うと、ビックカメラのポイントカードでお酒を手に入れることができてしまうのです。
実際のところビックカメラの値札は、このポイントぶんの価格を加えたものと考えられますから、他のポイントカードのない激安店と比べるとポイント分割高、ということになります。それでもビックカメラを使うのは、ビックカメラで発行される領収書の領収額が、このポイントで消費される額を含んだ額面になっているからなのです。
何が言いたいのかというと、例えば僕が最安値9000円のハードディスクを職業上どこかで買う必要に迫られたとします。ビックカメラでの値札は、9000円にポイントのぶん10%を含んだ10000円の値段がついていることになります。僕はこれを買って、9000円の価値のハードディスクと10000円と書かれた領収書、それに1000円分のポイントを得ることができるわけです。そのポイントカードを「酒」館に行って1000円の酒(スピリタス約1本)をポイントで買うと、不思議なことに、10000円の(ハードディスクの)領収書で、9000円のハードディスクと1000円の酒が得られたことになります。
これを普通にやると、9000円の領収書+9000円のハードディスク+1000円の酒になりますから、経費で落とせる領収書の見かけの額面が1000円増えたことになるわけです。
というようなことが起こってしまうことを、税務署はどのように考えているのでしょうか?税務署が家電屋のポイントの行方まで追っているという話を聞いたことは今のところありません。ただ、こういうところ(インターネット)でおおっぴらに書いてしまうともしかすると「ある朝、ドアがノックされドアの外に税務署の官吏が・・・」ということになってしまうのでしょうか・・・
えー、念のために書いておきますが、僕がビックカメラのポイントカードで酒を買っている、というわけではありません。ここではそういうことができるのではないか・・・ということに先日気付いた、ということを書いたまでですので。
でも、結局家電屋のポイントカードってこういうことを考えるのが前提になっているしくみなんじゃないのかなぁ・・と思ったりもするのです。
どういう状態かを説明しなければならないでしょう。まず下の図が普通の鼻毛の生え方です。少なくとも鼻の中を外からのぞいた限りではこのように、やや外向きに鼻毛は生えています。そのままにしておけば、毛先は細くしなやかで、特に鼻の中に異物感を感じることはありません。
ところが、放っておくわけにもいかないのです。鼻毛は切らないと伸びつづけて、やがて僕が社会的良識の持ち主であることを疑われてしまうほど伸びてきてしまいます。
そこで鼻毛を切ることになるのですが、鼻毛切りハサミでチョキチョキ切り、めでたく外からは鼻毛が見えなくなります。
がしかしここには恐ろしい落とし穴があるのです。何かの拍子で、カットした鼻毛が鼻腔の奥の方にひっかかってしまい、内側に向いたままになってしまうということがまれに起こるのです。これが悪名高い逆鼻毛です。
ひとたびこの逆鼻毛になってしまうと、元に戻すことは大変困難です。鼻毛は沢山有り、鼻の外から爪楊枝でかき回したぐらいでは戻ってくれません。しかもこの逆鼻毛、先端がカットされているので断面が円柱状になっており、その部分が鼻の微妙な粘膜を刺激して涙と鼻水を呼び起こしてしまうのです。さらに鼻毛はもともと外向きに生えているわけですから、鼻毛が引っかかっているあたりは結構強く刺激されるようなのです。
で、泣きながら鼻に指や楊枝やハサミを突っ込むのですが、この状態になってしまった鼻毛を戻せるか、もしくは気にならない程度までカットできるかは、運を天点にまかせるより他ありません。鼻の穴を思い切り開き、渾身の力で鼻息を「フンガフンガ」と出し入れしてその勢いで戻そうとしたり、異物を挿入して大量の鼻水を、時には血を流しながら逆鼻毛と戦うことになるのです。
このせいで、僕は鼻毛を切る作業に人一倍慎重にならざるを得ません。他の人はこういったことにならないのでしょうか?Googleで「逆鼻毛」を検索しても何もひっかかってこないようです(当たり前か)。他の人はどうしているのでしょうか?もしかしてこんなオバカなことに悩んでいるのは僕だけ?
最初で最後に就職した会社が雑誌編集プロダクションで、社長以外誰もネクタイなどしていなかったためか、未だにネクタイになじめないのです。ネクタイが好きな人にネクタイするなとは言いませんが、僕にネクタイしろとは言わないで欲しい、というのが本当のところなのです。
以前冬場にネクタイをしてバイクに乗ったことがあるのですが、結構温かいのですね。ネクタイがもともと防寒具という一面を持っていたことを実感させてくれます。ただ、防寒具としてはもっとずっと優れたものがあるので、いまさらネクタイに頼る必要はないのですけど。そう考えると、改めて日本の真夏にネクタイをして外を歩いたり、部屋でネクタイをしてプログラミングしたりすることが無意味に思えてきます。
「ネクタイ着用派」の人からすると、僕みたいなのは「非常識」の一言なのかもしれませんが、せめて、得意先に行く予定がない時ぐらいカジュアルでいさせてもらいたいものだと思います。僕から見れば、夏に、誰に会うわけでもないのにスーツにネクタイを着用しているというのは、ドトールコーヒーでお茶を飲むために鎧兜を着るのとの同じぐらい無駄に感じてしまうのです。
しつこいようですが、僕は人がネクタイを着用することを批判しているわけではありません。好きなら鼻にピアスだろうと頭に冠だろうと、仕事に邪魔にならないものなら許されると思います。ただ、僕に強要して欲しくないだけなのです。
ネクタイを男のセックスシンボルだとするのも結構。ただ、それが全員に求められるべき価値観だとするのはやめてもらいたいものです。僕はまだ作業着着てるほうが性に合ってるなぁ。プログラマが作業着着ていると良識を疑われるのでしょうか?
社会人になったばかりで世の中のことをよく知らない僕は、なんとなくこの看板を「きんちきん」と読んでおりました。意味は全然わからなかったのですが、質屋の看板というところから「この世の中、上から下まで全部金じゃ金じゃカネじゃぁ!!」と主張しているのだとぼんやりと考えていました。縦書きにしてあるところから、地面の上下にカネ、という連想が生まれたのだと思いますが、冷静に今考えるとオバカなことを考えていたものだと思います。「天地人」という言葉から勝手な類推をしていなのかもしれません
で、実際のことこの「金地金」がなんと読まれ、どういう意味なのかは、もっと後になって知って愕然としました。金融関連用語なんですね。金の延べ棒みたいに、宝飾品としての価値を持たせず、純粋に金そのものを資産保全や投資などの目的で取引する対象としたものをこう呼んでいるそうです。勉強になりました・・・。
ところが、先日古いゲームの記述を読んでいた時にあっけなくこの謎は解けました。僕が「I」という文字の向こう側に見ていたものは、「ローグ」というゲームに登場した「アイスマン」というモンスターだったのです。
「ローグ(Rogue)」というゲームは、まだ世にパソコンと呼ばれるものが登場して間もない1980年に生まれた非常に内容の濃いロールプレイングゲームの始祖のようなソフトです。以下のような特徴を持ち、現在でも多くの愛好家がいます。
このゲームの極初期に登場する恐怖のモンスターが、前述の「アイスマン(ICEMAN)」で、画面上で「I」と表示されていたのです。
このゲームはゲーム途中のデータを保存することはできるのですが、一度死んでしまうと保存データも消されてしまうというシビアなもので、始めたばかりの頃は新しい部屋を見つけ新しい物やモンスターを発見するたびに心底ビビリながら対応しておりました。とはいえモンスターを倒して経験値を稼いでいかないことにはいつまでたっても強くなれないので、モンスターを見るとおっかなびっくり戦っていたものです。
そんな中で登場したこのアイスマンは、序盤で登場するにもかかわらずかなり手強く、一度手を出したが最後自分か相手(プレイヤー)のどちらかが死ぬまで追いかけてくるという恐怖のモンスターだったのです。最初のフロアで、まだ全然レベルも上がってないときにこのアイスマンに出会うと、ほぼ間違いなくあの世行きになってしまうというそれはそれは恐ろしいものでした。
僕に染み付いていた「I」という文字に対する恐怖感は、このアイスマンに初めて出会い、追い回され殺された恐怖がトラウマになったものだったのです。分かってしまえばどうということはないのですが、こういう自分でも原因のわからないトラウマというものは結構不気味なものなので、原因がわかって本当によかったと思う今日この頃なのです。
とりあえずリゲインを1ダース買ってきてから、可能な限り早寝をしましょう。来週中にはなんとかこの6時間近い時差を体に身につけなければなりません。朝起きたらリゲインをイッパツやってスーツを着て出勤なのです。
後は朝の山手線ラッシュに体とノートパソコンが耐えられるかが心配なのですが・・・。
逆にデメリットは取る側には「税が変わると値札を全部変えなければならない」こと、取られる側には「税を除いた本体の値段がわかりにくい」ということがあります。
我々としては、この「税を除いた本体の値段がわかりにくい」というのは結構深刻なことです。これまで外税のものに税を加えた額を計算するのは、大雑把に「額面を10で割って2で割ったものを値段に足す」という、まぁ何とか暗算でできるようなものだったのですが、これからは逆の計算、つまり「表記されている値段を1.05で割る!」という計算を暗算でやる必要が出てきます。
この1.05で割るという計算、式が立てられるようになってしまえばなぜこの計算で本体の値段がわかるかを説明するのは簡単なのですが、どうも肌で感じられないというか、1.05で割るという行為が一体何をしているのかを体が納得しにくいのですね。
似たような計算に「0.95をかける」というのがあります。小学生に、5パーセントの消費税を除いた額を計算して、と言うと間違ってやりそうな計算です。こちらのほうが頭では理解しやすいのですが、もちろん結果は間違っています。
この「1.05で割ると税抜き後の本体の値段がわかる」というのを、数式を使わないで、心底納得できるような説明ってあるのでしょうか?「1/2+1/3=5/6になるのは、りんご半分とりんご1/3を足すとほら、5/6個分になるでしょ」というぐらい目で見て分かりやすい説明が欲しいと思うのです。
でもきっとこの「体感的にわかりにくい計算」を飲み込むことが、「算数」から「数学」への第一歩なのでしょうね。
そのいきさつはこうです。
仕事帰りにコンビニに寄った僕は、サイドスタンドをかけて「よっこいしょ」とバイクを降り、ヘルメットを脱いだところ、バイクがズシッと音を立てて倒れてしまいました。何のことはない、サイドスタンドのかけそこないだったのです。
慌ててバイクを起こしたのですが、運悪くタンクが倒れたところに丈夫な鉄パイプの柵があり、タンクが思い切りへこんで中のガソリンがピューピューと噴出してきました。
一瞬それを呆然と眺めていたのですが、気を取り直して、手で穴をふさいでみました。ガソリンの漏れは少なくなりましたが、完全には止まりません。悪いことは重なるもので、こういう時に限って朝マンタンにしたばかりだったのです。近くには穴をふさげそうなものもなく、穴に手を当てたまま少し時間が経ちました。
そうこうしているうちに、ふとその状況が怖くなりました、エンジンは切ったばかりで排気パイプは紙に火がつきそうなほどの温度になっています。もしこれで火が出たりしたら、僕は両手が火達磨になってしまう。そう気付いてまたバイクから離れました。
あいかわらずガソリンはピューピュー漏れています。こういう時はやっぱり消防署なのだろうか、それとも警察なのだろうかとちょっと考えて、消防署に連絡。「バイクが転んでガソリンが漏れているので、とりあえず安全を確保して欲しい」と伝えました。
待っている間、僕は漏れ続けるガソリンを見ながら「赤くて小さいライトバンぐらいの大きさの車がバケツと砂と消火器を持って来てくれるのかなぁ」などと考えていたのですが、やがてサイレンを鳴らして駆けつけてきてくれたのは、巨大なポンプ車が二台と、10人ほどの消防士さんでした。
消防士さんはバケツでガソリンを受けながら砂を撒き、タンクの亀裂をドライバで広げてガソリンを出し尽くしてくれました。その間事情徴収などを受けていたのですが、最後に消防士さんが帰るときに一言「このガソリンどうしますか?」と聞いてきたのにはちょっとびっくりしました。形式的ではありますが、一応僕のものなので、処分する前に聞いてみたのでしょう。僕が処分をお願いすると消防士さんは二台のポンプ車に分乗して去っていきました。
バイクはもう動かなくなってしまったので、バイク屋に取りに来てもらい、直るものかと聞いたところ「たぶんタンクのパーツはもう出てこない」と言われてしまいました。実際調べてもらってもホンダにはパーツがありませんでした。解体屋を回ってもいいのですが、とてもそんな時間的な余裕はなかったので、泣く泣く廃車をお願いしました。その際、トランクとそのステーだけははずしてもらって持って帰ってきました。
で、今はバイクの無い生活になってしまっています。こんなことは大学時代に免許を取って以来です。まぁ無ければ無いでなんとかなるものなのですが、やはり淋しいですね。
オブジェクト指向プログラミングの時代になり、この言葉の持つ意味はさらに「コードの再利用性」という言葉と相まって非常に現場の状況を複雑にしている感があります。
実際、オブジェクト指向プログラマが設計現場で「メンテナンス性」を考慮して、といわれた場合、設計の方針としては少なくとも次の二つの方向性を考慮する必要があります。
困ったことにこの二つは、設計の方針としては全く反対の方向なのです。で、さらに混乱させられるのは、「メンテナンス性」という言葉を出した当の本人が、どちらを望んでいるのかを分かっていなかったり、決められなかったりすることが多いことです。
で、その多くの場合設計者は後者を選んでしまうのですね。なぜかというと、前者を選ぶリスクよりも後者を選ぶリスクの方が小さく、さらにメリットも多いからなのです。
なぜかというと、オブジェクト指向の理解が十分あるエンジニアを一人探してきて雇うより、「VBは研修でやった」というような新人を10人探してくるほうがずっと簡単ですし、全体としての製造コストもあがります。ということはメンテナンスを受注する際の受注額も上がるということですから、システムを受注する側としてはいいことづくめなのです。
結果的に「コードの再利用性」は「コピー&ペースト&修正」に置き換わり、確かにある意味ではメンテナンスがしやすい、逐次処理の塊でステップ数の多いプログラムができあがってしまうことになります(これが一概に悪いと言っているわけではありません)。
こうなってしまう原因の一つに、現場にオブジェクト指向を十分に理解したエンジニアが少なすぎる、という事情があるように思えます。実際に設計の現場に集まっている人はオブジェクト指向を理解していても、コーディングする人を集めようとすると設計思想を理解できるレベルのプログラマを探すのは確かに困難を極めるというのが現状のようです。となれば、設計の段階から抽象化のレベルを下げざるを得ません。受注価格を云々する以前に人がいないのだからしょうがない、ということなのです。
こういった現状を考えてみると、オブジェクト指向というのは業務系では一時の流行で終わってしまうのかもしれません。その要因は以下のようなものです。
現在、現場ではUMLという、設計方針記述言語というか、まぁ設計段階の検討に使われる図の書式が幅を利かせています。その中でもクラス図(参照元)は広く使われていて、ホワイトボードにこの図を書きながら設計グループが検討を進めていくことも多いようです。
この図、確かになかなか便利なのです。オブジェクト指向プログラマにとって、実際のコーディングイメージの前にいろいろごちゃごちゃ考えている段階では結構使えます。
ただ、僕はこの図には以前からかなり違和感を感じていました。僕の頭の中に浮かんでいるイメージをうまく伝えられないところがあるのです。その原因が何なのか、しばらく悩んでおりました。
で、最近分かったのですが、この違和感の原因はこの図があくまで「クラス図」であることのようです。僕の場合、システム要求仕様のおよそ全貌を把握して設計に入る際、頭の中で渦巻いているのは「クラス」ではなく、「オブジェクト」なのです。この二つは似ているようでかなり違います。
「オブジェクトで考える」というのは具体的には以下のような点に着目して設計をすることです。
UMLにおいて、このオブジェクト生成から消滅までのイメージを表すのは「シーケンス図」というものなのですが、多くの場合クラス図を検討している段階でシーケンス図までイメージされていることは現場では少ないようです。
何が問題なのかというと、この「クラス図を書きながら検討する」ということなのです。
僕は既に出来上がっている設計を人に伝えるためにクラス図やシーケンス図を書き起こすことには何ら問題がないと思っています。問題なのは、オブジェクト感覚がまだちゃんと身についていない人がクラス図を書きながら設計を検討すると、どうにもこうにも「オブジェクト感覚」のないクラス図ができあがってしまう、ということです。なんと言うか、「クラスの一つ一つをコードとデータの塊」程度にしか捉えておらず、そのコーディング段階でのダイナミズムに対する感覚が育ってない、とでも言いましょうか、。
この辺り、とても抽象的な表現しかできないのですが、これでは読んでいるほうも困ると思いますので、次回でもって具体的な例をあげて説明していく努力をせねば、と思っております。