ただ困ったことに、同じことが人間にも当てはまる、と考える人たちがいます。
ただ、人間の遺伝子をサラブレッドのように扱おうと考える人たちには一点、完全に欠け落ちている観点があると思えて仕方がないのです。
それは、「サラブレッドは、人間が人間の価値観に沿うように作り出したものだが、人間はそうではない」ということです。
サラブレッドには「競馬場を速く走ること」以外の価値観は求められていません。だから、そういうただ一点の価値のみで種を絞り込んでいくことは可能でしょう。その代わりに足が細くてすぐに骨折してしまうことなどは種に与えられた条件として二の次三の次です。もし馬が聞いて上手だと思えるような声で歌うことができるサラブレッドが生まれても、走るのが早くなければ人間はその命を劣等だと判断するでしょう。
でも人間は違うはずです。少なくとも人間がどういう生き物であるかを決めることは人間にはできないはずです。
遺伝子は、時に我々人間から見て「失敗作」なのではないかと思えてしまうような遺伝子も生み出してきます。特定の形質を持った人が社会的な理由で「劣等」とされてしまうこともあります。
種の多様性は遺伝子によって支えられています。その遺伝子は、その多様性の中のどれかが優等でどれかが劣等であるということなど考えていません。優性、劣性という言葉がありますが、これは単に遺伝子同士の形質の出やすさの問題であって、その形質自体の優劣を意味しているわけではありません。
遺伝子は、種の多様化によって環境の変化に適応しようとしていきます。温暖化のような地球規模の変化を始め、ウィルスの蔓延などによって種が全滅することを防ぐためには、種自体が可能な限り多様化しておく必要があるのです。
人間が人間を、固定化された尺度で優劣を判定しふるいにかけることは間違っています。人間は社会全体として、人間全体のために人間の種の多様化を支えていく必要があります。それが人間という種を将来に渡って存続させる唯一の方法なのです。
絶滅した恐竜は愚かな生き物であったと考える人がいます。しかし、恐竜という種は1億5千万年以上もこの地球上を支配していました。しかし、人類はたかだか500万年の歴史しか持っていません。このまだ始まったばかりの種を絶やさないよう、我々は社会全体として遺伝子の生み出してくるものを受け入れていくことが大切なのです。
ある人にメールを送る際に、サブジェクトを「カデンノケン」にして送ってくださいと口頭で頼まれたのです。
はて?カデンノケンとはなんだろうか?としばし悩み、IMEに「かでんのけん」と入力して変換を試みるも、「瓜田」、「家電」、「荷電」、「家伝」など、どう考えても違和感のある言葉にしか変換されません。
困ったのでGoo辞書で調べてみると、ありましたありました。「かでん 【架電】 電話をかけること。」だそうです。
カデンノケンは「架電の件」だったのです。「先ほどお電話でお話したことに関して」というぐらいの意味でしょうか。
それにしても世の中にはまだまだ知らない言葉がたくさんあるものです。IMEも変換してくれよ。
まぁそこまでは許せます。しかし、メニューを見てみると、「ミソラーメン」とか「塩ラーメン」といった一般的な名前に混じって、お店で一番スタンダードなラーメンのメニュー名があろうことか「○○ちゃんラーメン」になっているのです。
で、「ラーメンください」と言ってみたのですが、返ってきた返事が「どのラーメンですか?」
このメニュー名をオレに言わせるか。この口にするのも恥ずかしいメニュー名を。オレはただラーメンが食べたいだけなのに、何でオーナーだか店長だかの愛称を口にしなければならないのかと。
でも、結局お腹のすいていた僕は「○○ちゃんラーメンください」と、もしかすると「○○ちゃん」本人かもしれない人に大声で告げてしまったのでした。
それにしても自分の名前付けるなよ。メニューに。客の身にもなってくれよ。
なのに、なのにですよ、最近コンビニに置いてあるアイスクリームの種類が少なくなっているような気がするのです。気のせいでしょうか?
コンビニのアイスは、冬場種類が少なくなり、夏が近づくに従って種類が増えていく、というのがこれまでのパターンだったように思うのですが、ここのところ夏になってもそれほど種類が増えていない気がするのです。
売り場の面積は基本的に変わらないですから、種類を少なくして同じ物を沢山置くようになったのでしょう。
種類が多いと管理が大変なのもわかるのですが、缶コーヒーがあんなに沢山置いてあることを考えると、アイスの種類の少なさはちょっと悲しいものがあります。
斜陽産業なんでしょうか?アイスクリーム業界って。何とか業界を上げてがんばってもらいたいものです。冬にも買っていいですから。
というか、そういう条件に合致した物件がもしあったとすれば、何か理由がないかぎりそういう値段になるわけがないのです。
で、いくつかの不動産を回ってみたところ、これまであったのはこんな感じです。
しばらくはこういうワケアリ物件をめぐる旅が続きそうです。
吉祥寺曼荼羅で演奏をしていてつくづく思うのは、本当にベースアンプって大事だなぁということです。
電気ベースという楽器に限って言えば、楽器とアンプが半々ぐらいの割合で出音に影響しているのではないでしょうか。
吉祥寺曼荼羅には「Acoustic」という、まぁそのスジの知っている人は非常によく知っているメーカーのベースアンプが置かれています。
これがまたイイのです。どれぐらいいいかというと、練習では一度もうまく弾けたことのないフレーズが(オイオイ・・・)、本番では弾けてしまうほどの力を持っているのです。
エフェクターも何もなしで、モンスターケーブル直結でEQもフラットなままでドンピシャリの音が出てしまいます。分かる人にはわかってしまう「あの音」が出るのです。薄くマイルドなオーバードライブがナチュラルな状態でかかり、もうたまりません。
もちろんベースアンプも楽器の一部ですから、このアンプの音が全てのベーシストにベストというわけではありませんが、少なくとも僕の楽器で僕の求めている音を探そうとすると、このアンプは確かに回答に一番近いところにある気がします。
ただ困ったことにこのアンプ、ちょっと家に持って帰れるような大きさではないのです。それに、このテのものは調整次第で良くも悪くもなってしまうので、同じアンプを買えばいいのかというとそういうわけでもないのです。
だから、自分の楽器をこのアンプにつなぐ快感を得るためには、吉祥寺曼荼羅のステージに立ちつづけるしかないのです。今のところ。
ところが、70歳以上の人にこの名前を聞かせると、ほぼ間違いなくある人物の名前と捉えられるでしょう。
一太郎というのは、戦前の軍国主義の中で教えられた軍国美談のなかの一つに出てくる登場人物なのです。この話は「一太郎やあい」という名前で知られています。
話の筋は、船で日露戦争に出征していく息子に、老いた母が岸辺から「一太郎やあい!家のことは心配しないでしっかり天皇陛下にご奉公しておいで!」というような声をかける、という話です。
この話の舞台が香川県の多度津というところだった関係で、僕も小さいときに今は亡くなってしまった祖母からこの話を聞かされた記憶があります。ただ、戦争うんぬんはわからなかったので「一太郎やあい」というせりふだけが記憶に残っていました。
いつだったか里帰りしたとき、兄に「多度津に行けば『一太郎せんべい』というせんべいを売っているらしい」ということを聞き、東京に持っていけばウケを狙えるかと、多度津までわざわざ車を出して地元の人に聞き込みをしたら、10年ほど前には確かに一太郎せんべいは売っていました。ただ、あまりにもおいしくなさそうだったので箱買いはやめて、話の種にということで数枚だけ買って帰りました。まぁ、わざわざ買いに行くようなもんでもなかったのですが。
今でもこの「一太郎せんべい」を売っているかどうかはわかりませんが、一太郎の話を知っている人は確実に減っていくことでしょう。息子を兵隊に出す母親の話が美談になるような世の中が再び来ないように、この話も忘れられていくことが幸せなのかもしれません。
ちなみに一太郎は戦場で凍傷になり指六本を失って戻ってきたそうです。
だいぶ前なので3Dというわけでもないのですが、自分が剣と魔法の世界の住人になって女房の病気を治すという、まぁ少し「なんだかなぁ」というようなRPGなのですが、何がすごいって、いわゆる「戦う」のが苦手な人向けに「働く」という手段が用意されていたのです。
僕なんかはまさにそうで、迷宮に入ってしまうとすぐに死んでしまうのです。だから、この「働く」という手段にとびついてしまったのです。
宿屋で泊まって朝起きますと、すぐに職業安定所のようなところにいって今日の仕事を探すわけです。で、「今日はセメント運びをしよう」ということで、それを選ぶと、終わる頃には夕方になっていて、幾ばくかのお金が手渡されます、で、そのお金の一部を宿屋台にして翌日の朝を迎えるのです。
これを繰り返すと少しずつお金がたまっていくので、なんというか「分不相応」な武器や防具を買えちゃったりするのです。
僕はちょっといい武器を戦わずして手に入れるため、宿屋と職安の間を往復する日々を20日も続けたところで「ハタ」と気付きました。
何が悲しくてオレはソフト代を払ってコンピュータを立ち上げてまで日曜日にこんなことをしているんだろうと。
部屋代を払うために働きつづけるのは現実だけで十分すぎるほどなのではないかと。
それに気付いた瞬間僕の熱は覚め、現実の世界に戻って部屋代を稼ぐためにまた翌日から働きに出たのでした。
戦争を語ろうとする時、いろいろな視点があると思うのですが、今回は「戦争がもたらすもっとも大きな不幸とは何だろう」ということについて考えてみました。
戦争は大量の「死」をもたらします。戦争の不幸はこの「死」で語られることが多いと思うのですが、最近、これはあまり本質的ではないのではないかという気がしてきました。
人間、結局いつかは死ぬのですから、戦争が死をもたらしているわけではないと思うのです。
では、戦争がもたらす最大の不幸とはなんなのでしょうか?
それは、「自分が何のために生き、何のために死ぬかを自分で選ぶことができない状況」であるとおもうのです。
「腹を決める」という言葉があります。自分の人生の行く先を自分で決定しようとしても、選択肢が極端に少なかったり、どう考えても一つしかない選択肢を自主的に選ばざるをえない状況に立たされると、人間は自分の意志と違う選択肢を選ばされる不幸と向き合うことを避けるために、自分の生き方をその唯一の選択肢にあわせていこうと心の中で努力するのではないかと思うのです。
その結果、戦場に向かう兵士は全て自分の命の意味を一つにすることになるのでしょう。
続く
今日、大発見をしました。最近都内でもよく見かける「サクレ」というアイスクリーム、というかレモン味のみぞれなんですが、これに先日紹介した「電気ブラン」という酒を少量かけて食べると「ウマイ!」。
きれいな器に盛れば、そのままバーで出てきても違和感が無いほどおいしいです。一度お試しあれ。
何度か「二度とかけてくるな!」というような応対をしたのですが、それでも関係なく電話はかかってきます。全然違う人から、以前の電話などおかまいなしにかかってきます。正気の沙汰とは思えません。
この明和地所のアホ電話はいったいなんなのだろうかと。
推測の域を出ないのですが、恐らく電話とオペレータを何十台か並べて、近所の局番の電話に片っ端から電話をかけているのではないかと思うのです。「今日はあなたは****局の3からはじまる人に999からさかのぼってかけて」という具合に担当を決めて、何も考えずに電話をかけているのではないかと。
もし名簿なりがあって電話をかけているのなら、もう少しまともな応対ができそうなものです。
もしサーバかなんかで電話番号とその持ち主の応対を管理していれば、同じところに何度も電話をかけるような愚をおかすことはないでしょうから、恐らくそれすらもないのでしょう。彼らは電話の向こうの人がどんなに怒っていようが、次にかける人は別の人だろうから全く気にしていないとしか思えません。いくら怒っても単なる怒り損です。明和地所の「メ」でガチャ切りするぐらいしか怒りを静める方法はありませんが、それでも次にかかってくるかどうかとは関係ないから始末に負えません。
不動産というのはもうかるのでしょう。こんな非効率な営業をして、それでも利益がでるんでしょうから。こういう営業のコストも建物の値段に入っているから問題ないのでしょうね。
とりあえず、もし僕の手元に一億円あって、猛烈に好条件のところに最高の物件があっても、明和地所なら僕は買いません。と。そういう人を世の中に増やしているだけのような気がするのですが。そういえば国立の景観で揉めたマンションも明和地所だったんですね。そのことを聞くまではマンションを建ててから言われたマンション側に同情的でしたが、明和地所と聞いてから気が変わりました。
まぁ彼らがいくらボロ儲けしようと僕はかまいませんが、女房と子供の昼寝の邪魔だけはしないで欲しいものです。
ペースとしては数ヶ月に1回ぐらいでしょうか。もちろん一度も行ったことはないのですが、FAXだけは勝手に送りつけてきます。
僕はこの団体を知りもしないのですが、なぜ僕のFAXを彼らが知るに至ったのでしょうか?
恐らくドメイン情報を検索したのではないかと思われます。ここ(randmax.jp)のようにドメインを立てると、そのドメインの管理者の情報は公開されてしまいます。これはインターネットにドメインという形で参加する際の責任表明のようなもので、ある意味しょうがないものです。
これが企業なら電話番号が公開されようがしょうがないのですが、ウチのように個人宅の場合は深夜にFAXされると非常に迷惑です。
Googleで検索してみると、この団体がそれほど悪質なものではどうもなさそうなことはわかるですが、それにしてもFAXを一方的に送りつけてくるのは勘弁してもらいたいものです。紙はこちらのものが消費されているのです。
ワン切や架空請求は「無視」が鉄則なのですが、この場合どうなのでしょうか。言ってわかる人たちなのでしょうか・・・・
この植物、もらってきたときは小さかったのですが、一月ほどで見違えるほど大きくなり、葉っぱの先から盛んに株分かれをしはじめます。どう見てもまだ子供なのにこの繁殖力の高さったら・・・・。まさに子宝草の名を欲しいままにしています。
この植物、世の「子供が欲しい女性」の手から手へ伝えられ、今日本のそこらじゅうで爆発的に個体数を増やしていることが予測されます。このままいくと、10年後には日本の原っぱを子宝草が覆い尽くしてしまっているのではないかと思ってしまうほどです。
戦前の日本に船でやってきたシロツメクサ、通称クローバーが日本中にあっという間に広まったように、次は子宝草の時代になるのかもしれません。
そうなったら、もう日本は南国ムードプンプンになることでしょう。なんたって子宝草の本名は「セイロンベンケイソウ」なのですから。
ちなみにこの草、もらってきて数ヶ月で30cmに成長しましたが、その間に恐らく100個以上の株別れをしているでしょう。最終的には1m近くにまで成長するということですから、うちのベランダはどうなってしまうのか、今からとても心配なのです。
捨てられない場合はどうするのかというと、もらってくれる人を探すしかないわけで、ウチの女房もインターネットの掲示板で先日からもらってくれる人を探していたのですが、今日返事が来てものすごくうれしそうにしています。
これでウチのベランダもしばらく持ちこたえられそうな気配ですが、全部あげるわけにもいかないのでたぶん最初の一本は残すことになると思うのです。でも残してしまうと、またあっという間に何倍もの数になります。まるで途中で抜け出すことができないネズミ講にはまってしまったようなものです。
少なくともいまお腹のなかにいる子供が元気に生まれてくるまでは、ベランダの子宝草は手厚く育てられることでしょう。それまでにどれだけ数を増やすことができるか、それが彼らの生きる道なのです。